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(74)競技で脚光を浴びた〜石井一族のゴルフ
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(66)川奈のプロたちの武者修行〜東京GCで修業した山本、内田ら
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(64)大倉男への感謝会〜日本ゴルファース倶楽部主催で盛大に
(63)わかな会ゴルフ大会〜きっかけは世界アマチュア・チーム選手権の開催
(62)カップを持たない日本オープンのチャンピオン
(61)大倉・野村の友情から実現した〜世界アマチュアチーム選手権
(60)ゴルフの神さまがやって来た
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(58)カナダカップで評判になった〜日本の女性キャディー
(57)カナダカップでゴルフの普及〜象徴は砧パブリックコース
(56)カナダカップに日本が優勝〜ゴルフの普及に拍車
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(53)ホプキンスの日本訪問〜カナダカップ日本開催が決定的に
(52)井口貞夫とカナダ・カップゴルフ〜ホプキンスに参加要請が実る
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(50)川奈の36ホールが日本のゴルフ界に与えた影響
(48)関東女子ゴルフ選手權始まる〜初代チャンピオンは伊沢鈴子夫人
(47)東京放送の女子オープンゴルフ〜プロの面目を保った樋口久子の優勝
(46)内紛解決から〜日本女子プロゴルフ協会の船出〜
(45)同好会の内紛解決に三好氏が動く〜組織の分裂騒ぎ後にプロを名乗る〜
(44)同好会の費用捻出に苦慮 〜女子プロは余計な風潮〜
(43)女子プロの卵の旗揚げ〜従業員ゴルフ大会
(42)女子プロ誕生のきっかけ〜原田経子の松島訪問
(41)杉本伊代子、川奈のプロに登用される〜女子プロを目指す同好会に参加
(40)杉本伊代子の記念碑〜同僚が建立に一肌
(39)大倉の人材育成の一環〜キャディーの制服に見るお洒落心
(38)名手を生んだ川奈の舞台〜富士コースで脚光を浴びた戸田
(37)関西勢に対抗する〜関東プロゴルフ協会の立ち上げ
(36)プロの恩返し〜賞金を差し出した石井(朝)の気質
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(34)プロゴルファーのかくし芸〜帝劇の舞台を沸かせた林由郎の兵隊踊り
(33)プロゴルファーのかくし芸〜玄人はだし、中村の清元
(32)涙なしでは語れない兵役体験〜弟子はもっぱら慰め役
(31)二等兵が大将になった話〜岩倉二等兵のゴルフ経験
(30)安田幸吉の徴兵検査〜第二丙種で兵役免除
(29)『カワナ。懐かしい』 〜川奈に駐留した元米兵の思い出
(28)日本のゴルフ場接収後〜米軍家族が教えたファミリーゴルフ
(27)米軍のゴルフ場接収〜接収は紳士的にゴルフ王国の勝者らしく
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(25)ゴルフ用語の日本語化〜打球部会苦心の作
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(22)戦時中のゴルフ競技(1)〜政府、舶来色一掃に懸命
(21)川奈のゴルフコースに税金 閉鎖騒ぎが勃発
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(19)大倉財閥のゴルフ場建設(3)
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(15)三井夫人の卓越した技術
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(12)女流ゴルファーの草分け帰国後ゴルフ場の近くに居を構える熱中ぶり
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(6)林愛作のゴルフとゴルフ場
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(2)暖香園とゴルフ
(1)東京と奥座敷(伊東)を結ぶ東海道線と伊東線
(はじめに)いい温泉とゴルフ


(68)村上のプロ育成〜石井裕士と佐々木マサ子 番組名:伊豆伊東のゴルフ物語

更新日(2020/02/19)

  村上義一は相模原ゴルフクラブ(GC)に移って以来、通常のプロの業務と並行して若いプロの育成に力を注いだ。川奈に縁の深い石井裕士(弘)がその代表格だろう。体格に恵まれ、パワーがあり、よく飛ばした。村上は『ヒロシは期待している若者です』と懇意な仲間に紹介していた。

  石井は一見不愛想だが、人柄はよかった。1960(昭和35)年にプロ入り。当初はなかなか芽が出なかったが、村上の紹介で愛岐カントリークラブに移ってからパワーゴルフの本領を発揮し、日本プロ、中部オープンなどに優勝している。ところが不幸にも65歳の若さで癌に侵され他界した。

  同じころ、相模原GCでは佐々木マサ子という女子プロが育った。日本人離れした容貌の持ち主で体格もよかった。168センチの長身だった。岩手県の出身で運動神経がよく、将来を嘱望されていた。相模原から三重県の四日市に移った後、運動具メーカー、ミズノの専属になった。1972(昭和47)年の日本女子オープンに優勝し、常勝樋口久子を抑えたことが高く評価された。

  佐々木は樋口、佐々木のコンビでアメリカの女子ツアーに参加して各地を転戦している。樋口は転戦中、US女子プロ選手権に優勝してゴルフ界の話題になった。相模原GCでは男子プロでは石井裕士以下、原芳将他、若いプロが多数育った。石井は中部オープンに2度優勝の記録がある。原には特筆すべき記録はないが、後輩の面倒をよく見た。村上亡き後、神奈川県下のこの地区のプロの組織的な活動や組織の強化に力を入れていた。村上は78歳で他界したが、その葬儀は倶楽部の練習場で行われた。プロの葬儀を倶楽部が関わるのは稀だが、相模原GCが村上に向けた感謝の意あったろう。

《写真・佐々木マサ子》