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カナダカップから60年-その2

[12/06掲載]
カナダカップから60年-その2
雨中のコースを歩く観衆

カナダカップから60年-その1

[12/06掲載]
カナダカップから60年-その1
カナダカップ最終日18番のグリーンを囲む報道陣。

女子プロ競技の始まり

[04/06掲載]
女子プロ競技の始まり
日本で女子プロなる競技が初めて開かれたのは1968(昭和43)年12月のこと。民放のTBS関連企業が河川敷(TBS越ヶ谷)のゴルフ場を経営していたことから、TBSが主催、日本ゴルフ協会、日本プロゴルフ協会が後援して同年12月11〜12日の2日間、54ホールのストロークプレーで優勝が争われた。  競技当日は雨が降り、肌寒く、とてもゴルフがやれるような日ではなかった。だが、将来を女子プロとして活躍したいという青雲の志に燃える女子プロたちが歯を食いしばって健闘した。 写真はTBS女子オープンゴルフの会場に飾られたゲート

戦後のゴルフ規則・ボールのサイズの変更通達

[08/12掲載]
戦後のゴルフ規則・ボールのサイズの変更通達
写真は、文書は昭和25年4月5日、JGA(当時は日本ゴルフ連盟という名称だった)が加盟倶楽部に送った新規則採用の通達です。 【解説】  現在、ゴルファーが適用を受けているゴルフ規則(JGA採用)は、1949(昭和24)年11月16日、日本ゴルフ協会が戦後の復活を果たした際、適用するゴルフ規則を巡り、東西の地区連盟間で、揉め事があった。関西側は戦前まで適用していた英国ルールの採用を主張した。一方関東側はこれからの相手はアメリカだから、米国ルールを適用すべきだと主張した。結局、関東側の主張が通ったが、戦前と戦後の大きな違いは使用するボールのサイズだった。現在は大型球だが、戦前は小型球の両方が使えた。その後、日本におけるゴルフボールのサイズは、競技ごとに使用球のサイズが指定されたが1960年、大型球に統一された。

ベンチュリ―とバークのレッスン

[07/08掲載]
ベンチュリ―とバークのレッスン
 昭和36年、読売プロゴルフ選手権が東京ゴルフGCと相模原GCの2コース行われた。最初の2日間が東京、後半は相模原が舞台だった。アメリカからケン・ベンチュリーとジャック・バークが参加した。ところが3日目の相模原GCでの競技は雨天中止となった。がっかりしたのは大勢の観客だった。見かねた遠来の二人は、急遽観客のために特別レッスンを買って出た。ベンチュリ―がモデルになり、バークが解説役に回った。にわかレッスンだったが解説は好評で、アメリカのプロのサービス精神旺盛なところが当時のゴルフ界の大きな話題になった。

優勝は女優さん

[06/19掲載]
優勝は女優さん
 昭和31年、関東女子ゴルフ戦主権が小金井CCで行われた。関東の女子ゴルフ選手権はその2年前に始まったばかりで、当時は競技会に出る人は限られていた。荒川さんは昭和30年、鎌倉の文士たちが主催した『ミス鎌倉カーニバル』でミスカーニバルに選ばれた。作家の久米正雄の推薦で大映映画に入社して、映画女優としてスターを切った。30本の映画に出演し、女優として知れ渡った。その時代からゴルフを楽しみ、昭和31年の関東女子ゴルフ選手権を制して人気者になった。

読売巨人軍の名づけ親

[05/07掲載]
読売巨人軍の名づけ親
 今年は日本のプロ野球が始まって70年になる。昭和9年、ホームラン王のベーブ・ルース以下大リーガーがやってきて、日本のプロ野球の夜明けを迎えた。プロ球団の第1号球団は読売巨人軍と名付けられた。名づけ親はフランク・オドールさん。昭和24年にサンフランシスコ・シールスを率いて昭和24年に来日している。オドールさんは大のゴルフ好き。シーススと一緒に来日した時、程ヶ谷CCで旧知の野球人と親善マッチをやった。お相手は戦前派のゴルファー井上匡四郎さん。元鉄道大臣を務めた人だった。 写真は昭和24年11月24日、オドール監督と井上匡四郎氏。

東京ゴルフ倶楽部の駒澤会の歴史

[04/02掲載]
東京ゴルフ倶楽部の駒澤会の歴史
東京ゴルフ倶楽部の駒澤会メンバー(前列左から浅見緑蔵、山本増二郎、宮本留吉、一人おいて安田幸吉ほか)



 
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