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女子学生の最初のゴルフ競技

[11/16掲載]
女子学生の最初のゴルフ競技
戦争で学生のスポーツはことごとく、中断されていたが、終戦後、野球や水泳、陸上などの復活は意外と早く、1946(昭和21)年には東京六大学野球連盟が復活し、リーグ戦を再開させた。学生ゴルフはこれに遅れること7年、男子の競技が行われたが、女子は競技者がいなかった。しかし時がたつにつれて各校に女子部員が誕生して、競技会の開催が叫ばれるようになった。1968(昭和43)年に関東女子学生の競技が東京湾の埋め立て地にあった東雲ゴルフクラブでスタートした。優勝は高校生の増永たい子さんだった。

ニュース映画に取り上げられた日本オープンゴルフ

[11/16掲載]
ニュース映画に取り上げられた日本オープンゴルフ
日本のゴルフ界の最大イベント日本オープンゴルフ選手権は、かつて映画館で上映されていたニュース映画に登場した。ニュース映画は本番劇映画の前に上映されていた20分ほどの短編もので政治、経済、スポーツなど時の話題などが画面に登場した。まだテレビのない時代には新聞社や映画会社の姉妹会社としてニュース映画を製作する会社が活躍した。(写真:1954(昭和29)年日本オープンゴルフ選手権のもの)

山椒は小粒でも

[11/16掲載]
山椒は小粒でも
 戦後の日本のプロゴルファーの海外遠征は、1952(昭和27)年の林由郎、島村祐正、中村寅吉、石井廸夫の4人がシカゴでのタモシャンタでの世界プロゴルフ競技出場になるが、翌年からは林の単独遠征となった。林は戦後のプロゴルフ界で大活躍した戦前派だが、ドルのない時代で遠征には苦労したらしい。シカゴでは在留邦人たちの声援を受けながら奮闘したようだ。『大和魂でゆけ!』と激励された林は大柄な外人との組み合わせでも、ドライバーショットの飛距離で互角にわたりあった。

アジアを制した日本のアマチュアゴルファ―たち

[11/16掲載]
アジアを制した日本のアマチュアゴルファ―たち
1963(昭和38)年に創始されたゴルフのアジアアマチュアチーム選手権の第1回大会はフィリピンで行われ、日本チームは石本喜義(宝塚)、三好徳行(霞ケ関)、鍋島直要(軽井沢)、広瀬義兼(武蔵)、吉川隆之(宝塚)、富田浩安(我孫子)のメンバーで初優勝した。 持ち帰った優勝カップをJGA(日本ゴルフ協会)の幹部にお披露目した。(昭和38年1月)

ケンブリッジ・オックスフォ―ドゴルフィングソサエティ

[02/07掲載]
ケンブリッジ・オックスフォ―ドゴルフィングソサエティ
大正13年、米国留学から帰国した赤星六郎は、卓越したゴルフ技術をもって草創期の日本のゴルフ界に新風を吹き込み、その後コース設計に興味を覚え設計技術履修のために英国、米国へ渡った。 英国では設計の大御所チャールズ・アリソンを表敬訪問した。遠来の客を迎えたアリソンはケンブリッジ大・オックスフォ―ド大のゴルフ交流の会に招いた。赤星は帰国後、『生涯忘れられない貴重な、権威ある会に出席できたのは忘れられない』と語っていた。 ≪写真,論崟韻箸修虜賢△魯▲螢愁鵞

女子プロゴルファー草創期

[02/07掲載]
女子プロゴルファー草創期
赤星四郎を会長(中央の白髪の男性)に迎えて女子プロを目指す同好会は、初めて女子プロと名乗った時の集合写真(東雲GCで) ≪日本の女子プロ草創期のメンバー(昭和37年)≫

客車を倶楽部ハウス代わりに

[01/14掲載]
客車を倶楽部ハウス代わりに
北海道にゴルフが定着したのは昭和の時代に入ってからだが、その時代は今日のような倶楽部ハウスなど贅沢な施設はなく、昭和7年に開場した札幌ゴルフ倶楽部はハウス代わりに廃車になった鉄道の客車を使った。 この客車は北海道開拓使時代、札幌を中心に運行されていた客車で廃車になったのを譲り受けたそうだ。同倶楽部の所属プロだった佐藤敏夫さんによると『ゴルファーとキャディーが、座席に座って弁当を食べたものです。汽車で旅行をしているような気分で、楽しかった』と思い出を語ってくれたことがある。 ≪客車の前で記念写真に納まった札幌ゴルフ倶楽部の会員たち≫

女性キャディの登場

[01/14掲載]
女性キャディの登場
元来、ゴルフ場におけるキャディ役は洋の東西を問わず、少年が役割を担っていたが、戦時中、男性は兵役に服したため、キャディが不足した。 そこで少女キャディが登場した。昭和12〜13年のこと。 ≪日本のゴルフ場に初登場した女子キャディー(相模CCで)≫



 
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