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ゴルフ写真館
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スポーツパレード

[03/23掲載]
スポーツパレード
体育の日の学生の行進

我孫子のご神木

[02/24掲載]
我孫子のご神木
千葉県の我孫子ゴルフ俱楽部の5番ホールには、ご神木として崇め奉られた樹木があった。 会員たちはご神木に締め縄を張って大切に保存していた。樹齢などは知られていないが、落雷によって大きな幹だけが残ったのか、よく分からない。だがこの樹木の存在は多くのゴルファ―が知っていた。数十数年前に撤去され、代わって種類の違う木が登場した。だがご神木の2代目と分かる人は少ない。ご神木を背景のショットをしている人物はプロの陳清水さん。

江ノ島を望むゴルフ場前

[01/29掲載]
江ノ島を望むゴルフ場前
現在は、閑静な住宅地になっている神奈川県藤沢市片瀬・・・かつて、ここがゴルフ場であったことを知る人はもう少ないのでは? 写真はそのゴルフ場でプロとして活躍した染谷彰一さん〜写真後列で立っている人物〜蔵 詳しくは歴史館コラムへ

プロのゴルフ留学

[10/01掲載]
プロのゴルフ留学
 1959(昭和34)年、日本の若いプロ2人がアメリカにゴルフ留学した。橘田規(きった・ただし〜故人)と勝俣敏夫。まだ、20歳代の新進プロだった。留学の手引きをしたのは、その前年の58(昭和33)年の読売プロゴルフ選手権に招かれて来日したケン・ベンチュリとジャック・バークの2人だった。留学の費用を両者が負担した。  日本のプロゴルフ界にとっては画期的なことで、当時、羽田空港から飛び立ったが、先輩プロの中村寅吉、小野光一らプロ界の大御所が見送った。日本のゴルフの国際化を推進した野村駿吉・日本ゴルフ協会副会長も鹿島立ちの日本のホープを見送った。

エンパイアステートビルに勢ぞろいした6人の侍

[08/28掲載]
エンパイアステートビルに勢ぞろいした6人の侍
昭和10年春、日本の若いプロ6人がゴルフの日米対抗戦に出場するため海を渡った。全米をくまなく回り、対抗戦は52銭25勝13敗4引き分けの成績を残した。空前絶後の快挙だった。一行はU.S.PGAのトーナメントディレクター、ボブ・ハーローに伴われ、ニューヨークを訪れた際、世界一のエンパイアステートビルを見学した。(左から陳清水、中村兼吉、ボブ・ハーロー、鹿沼団長、浅見緑蔵、戸田藤一郎、宮本留吉、安田幸吉)

関東オープン1951年

[12/25掲載]
関東オープン1951年
関東オープン1951年 昭和26年度大会【小金井CC】 左から陳清水、林由郎、中村寅吉(連続優勝)、鈴木源次郎、小野光一。

第1回日本女子オープン1971年

[12/25掲載]
第1回日本女子オープン1971年
第1回日本女子オープン1971年(大利根CCで) 日本女子オープン選手権は昭和43年、TBS女子オープンとして創始されたが、昭和46年から日本ゴルフ協会が主催者になり、女子のオープン選手権として正規な大会になった。JGA主催の最初の大会は茨城県の大利根CCで開催され、樋口久子が予想通りの強さを発揮して勝った。(優勝カップを手にする樋口、その左は藩玉華(台湾)、左端はベストアマチュアになたった小林和子(府中)、右端はデーモン(アメリカ)。

神さまのスニードがやってきた

[01/23掲載]
神さまのスニードがやってきた
 日本のゴルフは1957(昭和32)年10月、霞ケ関CCで開かれた第5回カナダカップで普及に拍車がかかった。この時、日本のゴルファーが注目したのはゴルフの神さまといわれたサム・スニードだった。スニードはアメリカのゴルフ界では、ベン・ホーガンと並んで最高峰のゴルファーといわれた。スニードの『ナチュラルゴルフ』という教本は、当時のゴルファー必携のレッスン書だったからだ。この時のカナダカップの開幕を前に、霞ケ関CCに隣接する東京ゴルフ倶楽部に、パートナーのジミー・ディマレーと突如として現れ、練習場でボールを打った後、会員と交流のひと時を楽しんだ。  会員たちは思わぬ訪問客に大騒ぎで、神様と会話を交わすことができ、真近で名手のショットを見ることができたからだ。  背後の建物は東京ゴルフ倶楽部のハウス。1963(昭和38)年、建て替えられた。スニードの背後で見物する《モンペ姿》の女性は、コース管理作業員。当時はコースに出て草むしりをやるのが主な業務だったが、女子従業委員のモンペ姿はめずらしい。



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