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往年のプロゴルファー 中村寅吉さんと筆者
館長 福島 靖 (ふくしまおさむ)
令和5年5月逝去。
故人を偲ぶとともにゴルフの歴史の記録として貴重な写真、コラムをアーカイブとしてそのまま掲載。
 プロフィール

1933年、神奈川県生まれ。 中日新聞、夕刊フジの元運動部記者。
記者時代はゴルフ、プロ野球、相撲、陸上、水上、テニス等を中心に
アマチュアスポーツ全般を取材した。
昭和33年、中日招待全日本アマプロゴルフ競技(現在の中日クラウンズ)を、その後、東海クラシックゴルフ競技を企画し、運営に協力した。
昭和58年、NECに移り、NECデビスカップの広報を担当。
平成2年、東京ゴルフ倶楽部の史料室を創設し、 平成6年、「日本ゴルフ協会70年史」をまとめ、日本のゴルフ界の正史を確立した。
同7年から関東学生ゴルフ連盟役員、同8年から日本ゴルフ協会広報委員。JGA競技の報道対応、同ホームページに寄稿。
日刊工業新聞に「ゴルフよもやま話」を14年にわたって連載。
同14年から東京システムハウス(株)顧問。ゴルフ歴60年。東京ゴルフ倶楽部史料室アドバイザー
(写真)アルゼンチンの生んだ名ゴルファー、ロベルト・デ・ビセンゾをブエノスアイレスの専属先のラネラを訪問した際のスナップ

 ごあいさつ

日本にゴルフゲームが持ち込まれて100年を越えた。
神戸在住の英国人の貿易商アーサー・グルームが1901(明治34)年、神戸・六甲山上の別荘の庭に4ホールの私的なコースを造ったのが始まりだった。 1896(明治29)年春、イギリスの海軍大学に留学していた水谷叔彦(としひこ=元海軍機関少将〜和歌山県出身)はイギリスのグリニッチのコースで英国の友人の手引きでプレーしている。1896年、今から108年も前のこと。

生糸貿易をビジネスとして長年、アメリカに住んでいた新井領一郎(群馬県出身)は1902(明治35)年、病気療養のためノースカロライナ州パイインハーストに滞在したが、その間、ゴルフを覚え、健康維持のために手掛けたゴルフに夢中になった。病が癒えてニューヨークに戻るやニューヨークにいる日本人に手当たり次第ゴルフを勧めた。その一人に大蔵大臣を歴任した井上準之助がいた。井上は帰国するやゴルフ場造りに動き、樺山愛輔、荒川新十郎らと東京ゴルフクラブを立ち上げた。これが日本人の手によるゴルフ場の第一号で、1913(大正3)年、9ホールのコースを創設した。

このゴルフ場(東京ゴルフ倶楽部)(東京・駒沢。現在は埼玉県狭山市)』こそ、日本のゴルフのルーツがある。ビジネスで海外に滞在、もしくは留学してゴルフを覚えた紳士たちが中心になってゴルフを普及させている。だが初期の段階においては倶楽部の運営、コース管理などは一部、日本にいる外国人の知識を借りているが、大方は自分たちの努力、研究によって苦労しながら独自のゴルフを築き上げた。これが今日に繋がっている。

ゴルフは信頼の上に成り立つスポーツである。だから競技に審判はいない。こんなスポーツは、他に例を見ない。
紳士、淑女のスポーツといわれる由縁はここにある。
スコアを数えて優劣を競うので、ごまかしがあってはならない。

大切な思いやり

ゴルフゲームにおいては、常に他人を気遣う精神が肝要だ。他人に迷惑をかけてはならない。
ルールに厳格でなければならない。といわれると、なんだか、堅苦しいスポーツと思われがちだが、そうではなく、練習や研究の努力をすればそれなりの結果が出る。だが、努力を怠れば結果が悪いのはいうまでもない。

ゴルフは自然を相手に競うスポーツだから、失敗したからといって、他人を責めるわけにはいかない。自然は手ごわい相手だ。
だが老いも若きも、上役、ご同役にかかわらず、男女を問わず、万人が同一の条件でプレーできる。
そのためにハンディキャップという好都合な制度がある。
この制度はゴルフ独特のもので、こんな素晴らしいスポーツに巡り合えた我々は幸せだ。
イスラム国は言うに及ばずイラク、イランは言うに及ばず、世界中の人々がゴルフを楽しめるよう、もっともっと普及してもらいたいスポーツだ。
このゴルフページを通してゴルフ愛好家の皆さんに、ちょっと珍しい史実、逸話などをお届けたい。
あなたがより充実したゴルフライフをお送りになれるよう、編集子一同、心からお祈りしながらこのページを纏めている。

<筆者の執筆中の掲載誌と連載した記事>
1)アルバ誌   千年不変のゴルフマナー
2)東京中日スポーツ  ゴルフの夜明け
3)日刊工業新聞  ゴルフよもや話
4)執筆中のゴルフ場会報
東京ゴルフ倶楽部会報
武蔵OGMゴルフクラブ会報
富士OGMゴルフクラブ市原コース会報
富士カントリー可児クラブ会報ほか