(22)戦時中のゴルフ競技(1)〜政府、舶来色一掃に懸命 |
番組名:伊豆伊東のゴルフ物語 |
更新日(2018/11/21)
ゴルフは打球、テニスは庭球に
日本のゴルフは太平洋戦争中、禁止にはならなかったが、自粛した時期があった。戦争の最中、ゴルフコースは食糧増産のために畑になり、薩摩芋やカボチャの栽培が盛んだった。米は配給制度で流通が規制され、白いコメの飯には容易に巡り会えず、主役は麦飯か『すいとん』だった。
《贅沢は敵だ》なんていう標語が流れ、パーマのお洒落は禁止され、《欲しがりません、勝つまでは・・・》と国民は歯を食いしばった。
そんな苦しい環境にスポーツを制限する統制令が出た。昭和17年、時の東條内閣によって発令されたものだ。日本のスポーツを統括している日本体育協会は解散させられ、加盟団体で舶来色の強いスポーツはことごとく排除された。剣道や柔道などは新生の大日本体育会に編入され、英語禁止の時代だからテニスは庭球、バスケットボールが籠球、バレーボールは排球といった具合に言い換えさせられた。舶来色の強いゴルフは当然、排除と見られていたが、ゴルフ界の賢者の発案で排除を免れた。
石井光次郎(元衆議院議長、当時は日本ゴルフ連盟理事)は粋な主張をした。
『ゴルフは日本古来の遊戯だ。西暦727年(神亀4年)頃、春日野で王子たちが打球に興じた』(百科事典に掲載されている)という一節を持ち出した。ある日、文化映画で視た一シーンだった。お陰でゴルフは抹殺を逃れ、大日本体育会に残留でき、ゴムの配給を受けながら細々と活動できた。競技団体の名前は『打球部会』、ゴルフ場は打球場と改められた。日本語化の一例としてプロの名称は打球戦士だった。
《写真・打毬の一場面と石井光次郎》
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