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(5)日本のゴルフコースの建設 番組名:伊豆伊東のゴルフ物語

更新日(2018/08/03)

  井上準之助のゴルフ場造りは、まず広大な土地探しに始まった。倶楽部の発足は1913(大正2)年だが、その後にコース建設という大きな関門が横たわっていた。日本ではすでに神戸、根岸、雲仙、鳴尾などに外国人のコースはあった。井上は倶楽部の財政面のみならず、コースの土地探し、建設に至るまで孤軍奮闘した。

  土地探しの末、東京の郊外に格好の土地を見つけた。東京市荏原郡駒沢村(現在の東京都世田谷区)に3万余坪の空き地があった。地主の代表格は古くからこの土地の所有者で、秋山紋兵衛、三田弥兵衛の両家だった。ほかにも多くの地主がいた。

  早速、井上は借地交渉に入り、借主との契約調印の場を銀行の一室を希望した。だが地主たちは承知しなかった。

  『3万坪もの広い土地を個人で借りるというのは信用できない。ペテン師かも。銀行の頭取とはいえ・・・』という疑問を抱いた。果たしてどんな家に住んでいる人物かを知りたかったらしい。横浜正金銀行の本店事務所を交渉場所にしたが、地主たちは承知しなかったので、井上の自宅(東京・麻布三河台)に落ち着いた。井上邸は門構えが大名屋敷のような大きい大邸宅だったので土地を貸す方は安心したらしい。

  かくして借地の契約が締結したのは1914(大正3)年の初め。ほどなくして建設の鍬入れ式が行われて日本人の日本人の手によるゴルフ倶楽部のコースが産声を挙げるが、当時はゴルフ場建設の知識もなく、暗中模索の状態の中から建設の工事が進められたという。しかし、根岸のゴルフ場に、コースに関する知識を持った会員がいたので、その知識を借りた。ブレディとコルチェスターという両氏がコース設計を引き受けた。同年6月、駒沢に6ホールのコースが完成した。

《写真・完成した東京GCの駒沢コースと芝刈りを馬が引っ張っていた》