| (16)大倉財閥の川奈進出 |
番組名:伊豆伊東のゴルフ物語 |
更新日(2018/10/05)

大倉財閥の初代大倉喜八郎(1837〜1928)は新潟の出身で、18歳の若さで江戸に出た。鰹節の行商をしていたが、江戸幕末の維新の動乱を機に、鉄砲の商売で一儲けする。
官軍と彰義隊の戦争を、早くから官軍の勝利と見越し、官軍に鉄砲を安く売ったと伝えられる。そのお陰で一代にして大倉財閥を築いた。大倉の見通しの良さは、子息の喜七郎(1882〜1963)に受け継がれている、といわれた。
東京から近い距離にある温泉地の伊東は、冬温暖、湯量が豊富で今日の東京都民から見ると休養のための絶好のオアシスだ。ここにゴルフ場があったら・・・。ゴルフ好きな人はそう考えるだろう。実際にゴルフ場の建設が始まったのは昭和の初期。大倉財閥がゴルフ場の建設に乗り出した。コースの完成後にホテルができたが、規模、内容ともに東洋一といわれた。
ゴルフ好きの文筆家で『連合艦隊の最後』の著書で知られる伊籐正徳(1889〜1962)の言葉を借りると『たとえ、本渓湖の鉄鋼は尽きるとも、川奈リンクスは永遠に在る・・・』
本渓湖というのは、大倉喜八郎が投資して旧満州に造った製鉄所である。新中国製鉄所の近代化計画で、この本渓湖が脚光を浴びた時代がある。1905(明治時代の終わり頃)年頃の話だ。
大倉喜七郎が川奈のリンクス(大島コース)を造ったのは昭和3年のこと。
その川奈のことをさらに伊藤正徳の言葉を借りると『本渓湖の埋蔵量は何億トンあるかは知らないが、それが尽きる日はいつか来るだろう。だが川奈のコースだけは永遠に存在せざるを得ない』
川奈のゴルフ場の魅力を表現した言葉だ。
《写真・川奈のコースと元気な頃の伊藤正徳》
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