(23)戦時中のゴルフ競技(2)〜学生ゴルフは細々と・・・ |
番組名:伊豆伊東のゴルフ物語 |
更新日(2018/11/22)
昭和17年の太平洋戦争の最中、スポーツを制限するスポーツ統制令が時の東條内閣から発令された。舶来色の強いスポーツの排除だった。日本のスポーツを統括する日本体育協会は解散させられたので、舶来色の強いゴルフは当然、排除とみられていたが、ゴルフ協会は打球部会と名を変えて生き残った。
ただし全国規模の競技会(日本打球選手権など)の開催は控え、地方大会のみになった。戦時中のことだから軍事優先で、一般の旅行は控え目。しかし、1943(昭和18)年度のゴルフ競技は地方大会のみの競技日程が組まれ、東西の大会が行われた。
関東地区は関東打球大会(関東アマ)、関東専門打球大会(関東プロ)、関西も同様だった。
学生のスポーツ(六大学野球など)は学徒体育振興会の傘下に置かれた。だが学生ゴルフは振興会から除外された。しかし、学生の旧団体である全日本学生ゴルフ連盟は、72ホール鍛錬競技、全日本学生選手権、全日本大学リーグ戦を挙行した。
日本のゴルフ界は1940(昭和15)年には、キャディを廃止(60歳以上は除く)し、ゴルフ大会の賞品を与えないこと。私的競技、団体競技(アマ、プロの東西対抗)を行わず、ゴルフは技術本位、心身鍛錬を目標にするものに限られ、飲食の簡素化、自家用車の禁止、贅沢は慎むということが申し合わせていた。
この年には銀器献納という政令が出て、各ゴルフ場が使っていた銀製のカップ類が大砲や鉄砲の弾になるのを目標に地方の公共団体などに供出させられた。
《写真・戦時下のゴルフに関する日本ゴルフ協会の決定事》
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