| (6)林愛作のゴルフとゴルフ場 |
番組名:伊豆伊東のゴルフ物語 |
更新日(2018/08/04)

群馬県出身の林愛作(1873〜1951)は明治の初期、19歳の若さで単身アメリカに渡り、東海岸の大学で学び、卒業後は大阪に本拠を置く美術商の山中商会ニューヨーク支店に勤務していた。
その時代の日本の国情は鎖国政策から脱却して近代化に流れていた。明治から大正へ。多くの外国人が日本を訪れるようになり、日本経済界の牽引役を担っていた渋沢栄一(1840〜1931)は、経済の発展を見据え、西洋式のホテルの建設を目論んでいた。
当時の日本には西洋式のホテルはなく、旅籠では外国人の受け入れは難しかった。そこでアメリカにいる林の人脈に目をつけ、西洋式ホテルの建設協力を打診した。林は滞米生活も長く、友人に建築設計家のフランク・ロイド・ライトがいて、ライトの起用を条件に渋沢の要請を受けた。かくして東京・日比谷に西洋式の帝国ホテルが誕生し、林はその支配人に就任した。
ところがこの林について日本のゴルフ界はその存在を見落としていた。林は滞米中の大学時代にゴルフを知り、プレーの経験者だった。
1919(大正8)年、同人雑誌にこう書き残している。
『ゴルフ遊戯は健康に適し、これをやれば20年は長生きする。1899(明治32)年、学校でゴルフをやった時分、日本人でゴルフをやるものはまだ、いなかった』
林は帰国してゴルフ場造りを思い立ち、土地探しと同好の士を求めたが、日本はゴルフ無縁の時代だった。やむを得ず自身でこの地(現在の東京・駒沢)にコースまがいのものを造り、ボールを打ったと伝えられる。井上準之助が、コース造りに土地探しをして東京ゴルフ倶楽部を創設したが、奇しくも林が当初目をつけた土地と同じ場所で現在は東京オリンピック記念公園になっている。東京都民のオアシスで、その一角にライトが林に贈った別荘(八星苑)が、いまに残る。
《写真・在りし日の林愛作と八星苑》
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