(15)三井夫人の卓越した技術 |
番組名:伊豆伊東のゴルフ物語 |
更新日(2018/09/20)
昭和5年といえば日本のゴルフは成長期にあり、関東では霞ケ関、我孫子、相模の各倶楽部がその前後に開場して日本ゴルフ協会の加盟倶楽部になったことで、ゴルフは本格的に活動を始めたといえる。
一方、その時代は海外からは著名なプロの訪日が相次ぎ、日本人ゴルファーは技術の習得に一生懸命だった。いまの時代とは違いゴルフの専門雑誌は関西で発行されていたが、関東にはなく翌6年、目黒書店から『月刊ゴルフ』が刊行された。
その時代に海外から著名なプロがやってきたが、その代表格は帝王といわれたアメリカのウォルター・へーゲンだろう。昭和5年春、曲打ちのジョー・カークウッドを伴い、やってきた。二人はオーストラリア遠征の帰途、JGAとKGU(関西ゴルフ連盟)の要請で日本に立ち寄った。東京、関西で模範プレーを披露したが、関東(東京GC駒沢)での模範プレーに三井夫人が招かれた。夫人はアメリカから数年前に帰国し、日本の生活にも慣れていた。模範競技の日は好調そのもので、イーブンパーの36で回った。
この三井夫人の会心のプレーに驚いたのは帝王だった。ゴルフの後進国の日本で、しかも女性がイーブンパーのスコアで回ったことに驚嘆した。帝王はそのご褒美に自分が愛用していたサンドウェッジをバッグから取り出して、三井夫人にプレゼントした。三井夫人は『あの日は不思議なほど調子が良く、36で回りました。するとへーゲンはサンドウエッジを1本、ご褒美にくださるというのです』
当時の用具の中にはピッチングウェッジやサンドウェッジの類はなく、バンカーではブリック(現在の8番に相当)を使っていた。ロフトが少ないから脱出には相当骨折ったはず。『へーゲンのご褒美は随分と重宝しましたよ』とは三井夫人の感想だったが、世界的な名手がうなった技は、けだし見応えがあっただろう。
《写真・三井夫人と帝王へーゲン》
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