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(78)中国にゴルフ場を建設した伊豆高原在住の原幸男氏
(77)普及に情熱を燃やした伊東のゴルファーたち
(76)川奈コースの微妙な起伏が若いプロに技術を伝授した
(75)川奈ゴルフ出身のプロたち〜コース設計、競技、レッスンで大活躍
(74)競技で脚光を浴びた〜石井一族のゴルフ
(73)プロたちのOB会〜川奈は総勢40人を超える大世帯
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(66)川奈のプロたちの武者修行〜東京GCで修業した山本、内田ら
(65)川奈会の誕生〜大倉喜七郎のプロゴルフ支援がきっかけ
(64)大倉男への感謝会〜日本ゴルファース倶楽部主催で盛大に
(63)わかな会ゴルフ大会〜きっかけは世界アマチュア・チーム選手権の開催
(62)カップを持たない日本オープンのチャンピオン
(61)大倉・野村の友情から実現した〜世界アマチュアチーム選手権
(60)ゴルフの神さまがやって来た
(59)高麗芝のグリーン〜日本のゴルフ場独特の芝
(58)カナダカップで評判になった〜日本の女性キャディー
(57)カナダカップでゴルフの普及〜象徴は砧パブリックコース
(56)カナダカップに日本が優勝〜ゴルフの普及に拍車
(55)カナダカップの報道陣取材に 小寺の規則、競技方法の解説
(54)カナダカップ日本開催の前年〜林、石井のペアが4位タイの健闘
(53)ホプキンスの日本訪問〜カナダカップ日本開催が決定的に
(52)井口貞夫とカナダ・カップゴルフ〜ホプキンスに参加要請が実る
(51)半分のカップの会〜大倉流のユーモアで藤原義江を表彰
(50)川奈の36ホールが日本のゴルフ界に与えた影響
(48)関東女子ゴルフ選手權始まる〜初代チャンピオンは伊沢鈴子夫人
(47)東京放送の女子オープンゴルフ〜プロの面目を保った樋口久子の優勝
(46)内紛解決から〜日本女子プロゴルフ協会の船出〜
(45)同好会の内紛解決に三好氏が動く〜組織の分裂騒ぎ後にプロを名乗る〜
(44)同好会の費用捻出に苦慮 〜女子プロは余計な風潮〜
(43)女子プロの卵の旗揚げ〜従業員ゴルフ大会
(42)女子プロ誕生のきっかけ〜原田経子の松島訪問
(41)杉本伊代子、川奈のプロに登用される〜女子プロを目指す同好会に参加
(40)杉本伊代子の記念碑〜同僚が建立に一肌
(39)大倉の人材育成の一環〜キャディーの制服に見るお洒落心
(38)名手を生んだ川奈の舞台〜富士コースで脚光を浴びた戸田
(37)関西勢に対抗する〜関東プロゴルフ協会の立ち上げ
(36)プロの恩返し〜賞金を差し出した石井(朝)の気質
(35)関東プロゴルフ月例競技の納会〜箱根地を替え歌で賑やかに
(34)プロゴルファーのかくし芸〜帝劇の舞台を沸かせた林由郎の兵隊踊り
(33)プロゴルファーのかくし芸〜玄人はだし、中村の清元
(32)涙なしでは語れない兵役体験〜弟子はもっぱら慰め役
(31)二等兵が大将になった話〜岩倉二等兵のゴルフ経験
(30)安田幸吉の徴兵検査〜第二丙種で兵役免除
(29)『カワナ。懐かしい』 〜川奈に駐留した元米兵の思い出
(28)日本のゴルフ場接収後〜米軍家族が教えたファミリーゴルフ
(27)米軍のゴルフ場接収〜接収は紳士的にゴルフ王国の勝者らしく
(26)戦時下のゴルフ競技〜プロ、アマとも地域大会のみ
(25)ゴルフ用語の日本語化〜打球部会苦心の作
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(23)戦時中のゴルフ競技(2)〜学生ゴルフは細々と・・・
(22)戦時中のゴルフ競技(1)〜政府、舶来色一掃に懸命
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(20)大倉財閥のゴルフ場建設(4)
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(17)大倉財閥のゴルフ場建設(1)
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(15)三井夫人の卓越した技術
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(13)アマ・プロゴルファーによる東西対抗(アマチュア)
(12)女流ゴルファーの草分け帰国後ゴルフ場の近くに居を構える熱中ぶり
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(7)日本のゴルフの先駆者、新井領一郎のゴルフ
(6)林愛作のゴルフとゴルフ場
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(4)日本人が創ったゴルフ場の出資者は、経済界牽引の大物ぞろい
(3)日本のゴルフとゴルフ場
(2)暖香園とゴルフ
(1)東京と奥座敷(伊東)を結ぶ東海道線と伊東線
(はじめに)いい温泉とゴルフ


(60)ゴルフの神さまがやって来た 番組名:伊豆伊東のゴルフ物語

更新日(2019/10/26)

  1957(昭和32)年10月のカナダカップ開催を前に、日本のゴルフ界は名手サム・スニードやゲーリー・プレーヤーがどんなプレーをするのか、が話題の中心だった。さらにこの大会がいかに世界的に注目されていたか。それを物語るのは大会取材のためにアメリカからやって来た著名なジャーナリストたちだ。AP通信社運動部長のウイル・グリムムスリーがやってきた。

  H・W・ウィンドというベン・ホーガンの『モダン・ゴルフ』の著者らの取材来日で、世界的なイベントというムードが高まった。海外からのプロたち60人は東京・帝国ホテルに宿泊し、大会三日前の練習日からバスでゴルフ場入りした。

  受け入れる側の霞ケ関CCは中村支配人以下、倶楽部の職員は総動員で、経験豊富なキャディーを他倶楽部からの応援派遣を仰いだ。

  大会前、報道陣は『明日開幕』の取材に追われ、矛先はスニードや地元の中村寅吉に向いた。ところがお目当ての二人は捕まらない。それもそのはず。スニードはお隣のゴルフ場、東京ゴルフ倶楽部にパートナーのジミー・ディマレーと同倶楽部の会員、中野敏雄さんに招かれて会員との交流の会に出向いていた。

  練習場でデモンストレーションをやり記念撮影に応じた。

  東京ゴルフ倶楽部の居合わせた会員は予期せぬ大物の訪問に大喜びだった。

  一方の中村寅吉はコースには姿を見せず、関係者は練習もしないで・・・とやきもき。薄暗くなってから倶楽部に姿を見せたが、好きな釣りで気分の一新を図っていたそうだ。事故もなく一同『やれやれ』だったが、この釣りは中村にとっては休養と気分一新の効果があったらしい。地元という重圧を跳ね返し、カナダカップ本番第1日は4アンダーパーの68で回り2位の座を確保して優勝への足掛かりを掴んだが、大会前にこんな一幕があった。

《写真・東京ゴルフ倶楽部を訪れたサム・スニード(左) 背後は旧東京ゴルフ倶楽部のクラブハウス》