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(69)井上準之助のゴルフ 番組名:取材メモ・写真に見る日本のゴルフ史

更新日(2022/05/21)

  日銀総裁、大蔵大臣などの要職を歴任した井上準之助(1869〜1932)は、大分県日田の出身で、東京大学を出て銀行家になり、勤務の一環として海外勤務も経験している。ニューヨークの支店に勤務した時代、その余暇はゴルフに凝った。

  ニューヨークでは生糸商の新井領一郎らとの親交があり、新井からゴルフの面白さを教えられ、ゴルフに関する豊富な知識を身に着けて普及の一翼を担った。

  明治の終わりに帰国して、日本ではゴルフ倶楽部創設の主導的な役を担っている。1914(大正3)年に開場した東京ゴルフ倶楽部の建設に関しては、土地の借り入れに始まり、倶楽部の運営に関するすべてを取り仕切った。9ホール分の土地3万坪を借りて建設が始まったが、当時としては地代年1500円と高価で、当初は果たして高額な借地代が払えるかが疑問視されていた。何しろ日本で初めてのゴルフ場運営だから、さすがの銀行家も自信がなかったらしい。

  ところが財政家の井上は経営には自信がなかったものの、ゴルフ場ができて閑古鳥が泣いても、建設費のほかに3万5千円の資金を集めて、銀行利子や公社債の利回りで地代が払えるように妙手を打った。

  ゴルフ場の倶楽部ハウスといえば、東京ゴルフ倶楽部のそれは1914(大正3)年、大正天皇即位の記念に建てられた大正博覧会の貴賓館を5千円で払い下げてもらい、これを移築して使った。井上の発案だった。

  ゴルフ場は順調に動きだしたが、井上は1932(昭和7)年2月9日、血盟団の小沼正にピストルで射殺された。その年の5月に倶楽部は埼玉県の朝霞に移転して開場したが、倶楽部創立に骨折った井上は、新ゴルフコースではクラブを振らず仕舞だった。

《写真・大分県日田市にある井上の生家》