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(65)日本のアマチュア初の海外遠征 番組名:取材メモ・写真に見る日本のゴルフ史

更新日(2022/04/17)

  日本のアマチュアゴルファーが初めて海外に遠征したのは1924(大正13)年の11月のことで、第1回のチャイナ・アマチュア選手権出場のためだった。この大会は上海・江湾のコースで行われ、大谷光明、赤星四郎のほか坂本史科や、在上海の日本人の谷内憲行らが出場した。だが、日本のゴルフ史や年表にはこの遠征に関して1行も書かれていない。大正13年の頃には、国内にあるチャンピオンシップコースといえば、18ホール完備のゴルフ場は旧程ヶ谷カントリー倶楽部のみ。コース事情は貧弱だったが、日本アマチュアのタイトルはすでに在留外国人の手から離れ、日本人ゴルファーの成長が著しかった。それ故に遠征した一行は、東洋の覇権を目指す心意気だった。大谷光明は当時実力ナンバーワンのイギリス人、M・バットに対し狢播櫂丱奪鉢瓩琉婬すみに燃えていた。だが天運に恵まれず、赤星四郎が6位で大谷は12位という成績だった。

  二度目の挑戦は1926(大正15)年のこと。第1回の大谷、赤星に加え赤星六郎、川崎肇、関西の室谷藤七が『今度こそ』の意気に燃えて出場した。川崎が健闘して優勝したバットに肉薄したが、最終ホールでパットをしくじり3位に留まった。

  優勝したバットはその後、日本を訪れた。1933(昭和8)年の日本オープに出場し、赤星兄弟とベストアマチュア争いを演じ、結果は16位タイの成績を残した。日本ゴルフ協会はバットがラウンド中に76のスコアをマークした実績に対して金メダルを贈った。バットは『金メダルを貰ってうれしい。いずれは、また日本を訪ねたい』と言い残して日本を去った。アマチュアの初の海外遠征に残る古い話題だ。

《写真・チャイナアマに出場した大谷光明》