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(51)大和魂で戦え! 番組名:取材メモ・写真に見る日本のゴルフ史

更新日(2021/12/17)

  《欲しがりません、勝つまでは・・・》。《撃ちてし止まん》。《大和魂で・・・》

  太平洋戦争中、国民の戦意高揚を促す標語である。戦争の体験者にとっては忘れ難い言葉だろう。戦後、初めて米国に遠征した日本のプロたちがプレー中、『大和魂で戦え』という言葉を耳にしたそうだ。

  1952(昭和27)年、米本土シカゴ(タモシャンタ世界プロゴルフ選手権)に遠征した日本のプロ(中村寅吉、島村祐正、川奈出身の石井廸夫)たちは、遠征先で現地在住の日系人からこんな声援を受けながら健闘した。大会の会場には大会関係者の配慮で日章旗が掲げられ『勇気百倍だった』と林由郎が語ったことがある。印象に残るのは『大和魂で戦え』という激励の言葉だったそうだ。戦後、戦いに敗れた日本では、国民の祝日であろうと日の丸を掲揚するのが禁止されていた。そんな体験のあるプロたちにとっては、見知らぬ外地で見た日の丸と日本語の応援は、勇気百倍だったろう。

  戦時中、在米の日系人たちは収容所に送り込まれた辛い体験をしている。競技会場で日の丸を眺めた時の喜びは、日本から遠征したプロたちも同じ心境だったろう。

  シカゴ(タモシャンタ世界プロ選手権)には、その後、林が単独で4回連続して出場した。

  戦後間もない時期に、海外からの招待が舞い込んだのは1953(昭和28)年のフィリピンオープンだったが、敗戦国の日本人は容易に渡航できなかった。その代わり、日本国籍でなかった陳清水と小野光一(旧名・孫士均)は、台湾の人々の応援を受けて羽田からマニラへ飛んだ。日本のプロたちは指をくわえて見送っていたが、1956(昭和31)年になって日本国籍の林由郎と川奈出身の石井廸夫の二人が、海外での選手権に出場できた。

《写真・シカゴのトーナメント会場の風景》