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(55)大谷光明の子を思う心 番組名:取材メモ・写真に見る日本のゴルフ史

更新日(2022/01/24)

  大谷光明(1885〜1961)は日本ゴルフ界において父のような存在だった。西本願寺門主の大谷光尊の3男で、日本ゴルフ協会においてはチェアマン、会長を歴任した。明治の初期のことだが英国に留学してゴルフを知った。だが冬寒い国でのゴルフは身につかなかったが、帰国してから東京ゴルフ倶楽部に入会して、ゴルフの面白さを満喫した。英国では飛ばず、寄らずで関心は薄かったが、日本でのゴルフは魅力があり、熱中時代を送った。入会した倶楽部が横浜、神戸の外人倶楽部との対抗戦をやると、大谷はチームの中核として活躍した。だが難解な規則の解釈に悩み、勝てるゲームを失い、悔しい思いをした。そこで日本語のルールの必要性を痛感し、日本人ゴルファーのためにゴルフ界の組織化(日本ゴルフ協会の立ち上げ)に専念して規則の邦文化に生涯を捧げた。

  邦文化の傍ら自費を投じて規則に関する書籍を出販し、会員になっている倶楽部の会員に配っている。茨木カンツリー倶楽部から出販したルールの解説書に義理の子息になる近衛文隆(1915〜1956)の死を悼む心を纏めて付録にした。

  大谷が近衛の存在を意識したのは1931(昭和6)年の日本アマ選手権(茨木カンツリー倶楽部)の折だった。16歳で初出場の近衛少年は予選を3位タイで通過し、ゴルフ界の新星と騒がれた。翌年、米国に留学し、帰国後は父・近衛文麿総理大臣の秘書官を務めた後に陸軍に入り旧満州に出征して終戦を迎えた。ところが、ソ連に抑留されて1956(昭和31)年、イワノボの収容者で病死という不運な生涯を閉じた。ご令嬢の夫君でもあり、大谷は計り知れない悲しみに包まれた。そこで子を思う親心を纏めて、子の死を悼んだ。

《写真・大谷が纏めた子の死を悼む文面》