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(19)近藤天(たかし)さんの倒立 番組名:取材メモ・写真に見る日本のゴルフ史

更新日(2021/03/03)

  『体操ニッポン』の名を世界的に広めた人物として日本体操協会の会長を務めた近籐天(1911〜1994)の名を忘れることができない。近藤は1932(昭和7)年、ロサンゼルス五輪に出場した体操の元日本代表だ。無類のゴルフ愛好家だったが、そのことを知る人は少ない。東京ゴルフ倶楽部がまだ埼玉県の朝霞にあった時分、27歳の若さで入会した。

  『その時の入会金が4百円、それに株を3百円持たされて合計7百円もかかったよ』と入会当時のことを語っていた。1938(昭和13)年のことだった。

  当初は渋々のゴルフだったが、ある日のこと倶楽部競技の『宮内大臣杯』に出場して優勝した。宮内大臣が松平恒雄だった時でグロス85、ハンディキャップ20、ネット65。松平大臣が英国から持ち帰った立派なカップを手中にした。当時のしきたりに沿ってお礼のために宮内省に参上した。いつしか話は体操のことになり『一度、やってくれないか』と松平が要求し説明無用とばかり、応接室の椅子の上で倒立をして見せた。

  すると松平は大喜びして『ちょっと待ってくれ』と女官たちを集めて『もう一度、頼むよ』とリクエスト。そこで近藤さんはまた椅子の上で倒立を披露した。『わたしゃ、この時はしかたなくやりましたよ』と、渋い顔で語ってくれたことがある。

  1932(昭和7)年のロサンゼルス五輪に出場した近藤は、苦手な『あん馬』で思うような演技ができず、不本意な結果に終わった。この失敗が起爆剤となり『体操ニッポン』を生むきっかけになったという。

《写真・お元気な頃の近藤さん(右上)と埼玉県朝霞にあった時代の東京ゴルフ倶楽部(左下)》