(50)ドルのない時代の海外遠征 |
番組名:取材メモ・写真に見る日本のゴルフ史 |
更新日(2021/12/08)

今日、海外旅行をするとなれば、ある程度の額の米ドルを使えるから、好きなところへ足を運べる。だが、戦後のドルのない時代には持ち出せる額に厳しい制限があった。1ドルの円換算は360円という時代もあった。
1951(昭和26)年、アメリカからプロゴルファーのジャック・バークとロイド・マングラムというトップクラスのプロが来日した。目的は日本に駐留する在日米軍兵士の慰問で、フィリピンオープン出場の帰途、小金井カントリー倶楽部と程ヶ谷カントリー倶楽部で模範プレーを披露した。その一人のマングラムは、シカゴの実業家が経営するゴルフ場の所属だった。経営者は1941(昭和16)年創始の高額賞金が懸かったプロゴルフ競技(タモシャンタ、オールアメリカン大会)のパトロンで知られていた。
当時、日本ゴルフ協会の副会長だった野村駿吉はアメリカ通で、日本のプロを海外のトーナメントに出場させたいという夢を持っていた。そこで遠来のプロを新橋の料亭へ招き、日本のプロも同席させて、日本のプロを招いてくれるよう懇願した。帰国したマングラムはオーナーに懇願してくれ、1952(昭和27)年に林由郎、島村祐正に川奈出身の石井廸夫の3人が出場できた。だが、3人の渡米に際し、日本のゴルフを統括していた協会事務局は渡米申請、外貨の持ち出し許可の取得を得るために苦労した。
外務省や大蔵省と度重なる折衝で渡米許可を得ている。このシカゴ遠征は、その後4年間続いたが、これが日本のプロにとっては戦後初の海外遠征だった。1954(昭和29)にはカナダカップ参加が認められ、中村寅吉、石井廸夫が出場し、1956(昭和31)年にはフィリピンオープンに林由郎、石井廸夫が参加できた。当時外務大臣だった藤山一郎、マニラの在外事務所代理のト部敏男が献身的に協力をしてくれ、石井は3位タイの成績を残している。
《写真・マングラム一行を招いて招待を懇願した会合》
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