(20)ハンディキャップの差は1ながら |
番組名:取材メモ・写真に見る日本のゴルフ史 |
更新日(2021/03/12)

相撲の社会では『一段(番付)違えば虫けら同然』という言葉がある。実力の社会を表現する厳しい言葉だ。だがゴルフのハンディキャップは数字が一つ違うといっても親交の度合いには変わりがない。
敗戦国の日本がオリンピックに参加できたのは、戦後7年が経った1952(昭和27)年のヘルシンキ大会だった。水泳の古橋廣之進は矢継早に世界記録を樹立、金メダルが期待された。しかし、その時すでに全盛期を過ぎ『フジヤマ・トビウオ』のニックネームは残っていたものの、無残な敗戦で、実況中継のアナウンサーは『古橋が敗れました』と泣き声で伝えた。
こ水泳に代わってレスリングと体操が日本の顔として台頭が顕著だった。レスリングは八田一郎(1906〜1983)、体操は近藤天(1911〜1994)という熱血漢に率いられ、ヘルシンキ大会では石井庄八がレスリングフリースタイルのバンタム級で金メダル。一方体操では小野喬らが銅メダルで注目された。
体操は近藤天が先のロサンゼルス大会の経験を生かして強化を図り、レスリングは八田一郎が柔道からレスリングに転向して、世界制覇を目指した。ユニークだったのは1964(昭和39)年の東京五輪に向けて八田が主張したレスリング強化策で、スポーツ愛好家の記憶から消えない。選手の眼力を鍛えるため、上野動物園の檻の前でライオンと睨み合いをさせた。『負けたら(髪の毛を)剃るぞ!』は有名な檄だった。
近藤、八田ともに趣味のゴルフではお互いを意識した。二人は名門東京ゴルフ倶楽部の会員で、ゴルフ歴の長い近藤は『私はショートアプローチが下手だったけど、八田さんよりハンディが1つ少ないので鼻が高かった』とは存在感を意識した言葉ながら友好関係は不変だった。
《写真・レスリング選手団に胴上げされる東京五輪での八田一郎》
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