(15)『ハッとしてキャッとした』曲打ち |
番組名:取材メモ・写真に見る日本のゴルフ史 |
更新日(2021/01/29)

戦後、日本の経済が安定し、ゴルフが急激に普及し始めたのは昭和30年代に入ってから。だがまだその時分は、古いゴルフ場は日本に駐留した米軍との併用が多かった。昭和32年はカナダカップが霞ケ関カンツリー倶楽部で開かれた年のことだが、日本に駐留する米軍兵士の慰問に米本土から多くの芸能人やプロスポーツ選手がやって来た。その年の夏、埼玉県の東京ゴルフ倶楽部にポール・ハーンというゴルフの曲打ちがやって来た。曲打ちというだけあって、とてつもなく長いシャフトのクラブで打って見せたり、椅子に腰かけたままボールを打ったり、スライスやフックボールはお手のもの。そのうちハーンがとてつもない注文を出した。
『誰かティーにボールを乗せて、それを口に銜えて寝てくれないか』
慌てたのはこの催しを開いた東京ゴルフ倶楽部で『危険この上もない』と野村理事長以下、倶楽部支配人が鳩首会談を始めた。2、30分経過したところでゴルフ場勤務という若い女性従業員が『私が引き受けます』と名乗り出た。
『待ってくれよ』とゴルフ場側は止めに入ったが、彼女はボールを乗せたティーを銜えてハーンの前で横になった。するとハーンは深呼吸を繰り返してからドライバーを一振り。満場、ハッとして思わず目をつぶった。その瞬間、白いボールは勢いよく飛び出し、女性はゆっくりと起き上がった。
この勇敢なる女性は霞ケ関カンツリー倶楽部に勤務していた。後日同倶楽部のプロだった新井常吉と結ばれた。新井は1956(昭和31)年の日本プロ選手権のランナーアップ。決勝で林由郎に敗れた。
『怖かったけど、早く終わってくれればいい。それだけ考えていました』恐怖の事後の勇敢なる彼女の感想である。
《写真・恐怖の一打の瞬間》
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