(25)ゴルフの日米対抗戦が実現 |
番組名:取材メモ・写真に見る日本のゴルフ史 |
更新日(2021/04/23)

1934(昭和9)年秋、野球の米大リーグ一行が日本にやって来た。メンバーの中にはホームラン王のベーブ・ルースがいた。さらに来日した関係者の中にバットメーカーの社長がいて、アメリカPGA(プロゴルフ協会)から日本のゴルフ協会に当てた親書を携えていた。中身はPGAのプロと日本のプロとの対抗戦をやらないか、という提案だった。これを受けた日本側は大谷光明(同副理事長)らの首脳陣が協議した結果、日米親善、ゴルフの普及にプラスになるとこの申し入れを受託し、翌1935(昭和10)年に6人のプロの派遣を決めた。
代表に選ばれた安田幸吉、宮本留吉、浅見緑蔵、中村兼吉、陳清水、戸田藤一郎のプロ6人に団長として加沼豊(程ヶ谷カントリー倶楽部支配人)らの一行だった。
4月に出発し、計12回の対抗戦が予定された。期間は約3か月にわたる大キャラバンだった。
遠征の契約条件は、往復の旅費(当時は飛行機ではなく、横浜からの船旅)は日本側で持つ。滞米中の旅費、宿泊費はアメリカ側。興行収入はアメリカ側とするという内容だった。
出発前、一行は東京ゴルフ倶楽部朝霞コースで合宿練習を重ねた。指導に当たったのは日本ゴルフ界の重鎮、赤星四郎、六郎の兄弟で、自宅に6人のプロを呼び寄せて西洋料理の食べ方、作法、特にスープの食べ方を指導した。代表一行のほとんどが西洋料理を口にしたことがない。「作法に落ち度があってはいけない」と出発前は作法の履修から始まった。
《写真・日米対抗ゴルフを前に渡米する6人のプロを指導した赤星兄弟(左兄四郎、右弟六郎)》
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