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(68)小寺酉二の英語力と正しい報道 番組名:取材メモ・写真に見る日本のゴルフ史

更新日(2022/05/12)

  戦後、日本ゴルフ協会で専務理事などの要職をこなした小寺酉二(1897〜1976)は、慶應義塾大を卒業後アメリカのプリンストン大学に留学し、帰国後母校で、英語の教師として教壇に立っていた。ところが戦後、日本のゴルフが復興し、関東のゴルフ連盟ではルールの改正など英語が必要になり、請われて役員に就任した。戦後すぐの競技には在日アメリカ軍人らが多数参加したので英語力が必要だった。そこで小寺の英語が力を発揮して、スムーズな運営ができた。しかもゴルフに関する知識が豊富で、ゴルフトーナメントを開こうとする協賛社からは助言を求められて引く手あまただった。支援したトーナメントで、今日まで続いているものでは『中日クラウンズゴルフ』が代表例だ。

  さらに小寺はゴルフ競技が新聞のスポーツ欄で報道されるようになると、担当記者と懇意になり、ルールの解説やゴルフ用語の説明を丁寧に説いていた。記者がゴルフをやろうとすれば、名門倶楽部とプレーに関して、折衝を厭わなかった。時には記者団とプレーを楽しみ、ルールの処置については実地指導もした。小寺の心の中には、ゴルフの普及とスポーツとして正確に報道されることしかなかった。ご本人はゴルフを学生時代に始め、東京ゴルフ倶楽部、廣野ゴルフ倶楽部の会員だった。競技歴は1932(昭和7)年、日本アマ予選のストロークプレーでは4位タイ。マッチプレーでも健闘してベスト4に食い込んでいる。翌33(昭和8)年の関西アマでは決勝に進出し、英国人のコーンと優勝を争ったが、5&3で惜敗した。

  戦後、日本のゴルフ界を動かした3本柱がいる。石井光次郎、野村駿吉とそれに小寺である。

《写真・戦後再開された関東の競技には大勢の米軍兵士が参加した。小寺(写真中央)は、得意の英語で競技を取り仕切った。》