| (44)知られざる赤星六郎快挙 |
番組名:取材メモ・写真に見る日本のゴルフ史 |
更新日(2021/10/13)

名ゴルファー赤星六郎(1898〜1944)は、薩摩藩郷士の赤星弥之助を父に、10人兄弟の6番目として育った。父は明治維新前、五代友厚(大阪商工会議所初代会頭)とともにヨーロッパを旅して見分を広めている。その折、英国の兵器メーカーであるアームストロング社から大砲のパテントを手に入れ、日清、日露戦争で政府に大砲を売り込み巨万の富を築いたといわれるが、50歳の若さで他界した。五男の五郎を除く男子4人をアメリカに留学させ『親が死んでも大学を卒業するまでは、帰るべからず』と猛烈遺言を残している。
兄弟は皆、運動神経に恵まれ、のちにゴルフ場設計家となった四男の四郎は大学でアメリカンフットボールの選手だった。だが、六郎は幼少期から体が丈夫ではなかったので、激しい運動を避けてゴルフを手掛けた。
1924(大正13)年のこと。大学ゴルフ部の合宿遠征でパインハーストに出向いた際、同地でスプリングトーナメントが開かれていた。そこで監督から『出てみないか』と勧められて出場した。六郎は『いつ負けてもいい』という気楽な気持ちでプレーしていたところ勝ち進み、予期せぬ優勝をものにして、「赤星旋風」が巻き起こった。ところがこの快挙は当初、日本には伝わらなかった。翌年、赤星が帰国して明らかにしたが、日本のゴルフ界には知られざる快挙だった。写真・赤星の快挙を報じたパインハーストの地元紙の一ページ写真・赤星の快挙を報じたパインハーストの地元紙の一ページ
1967(昭和42)年11月、世界シニア競技がパインハーストで行われた際、日本代表として出場した鍋島直泰(1907〜1981)が、地元新聞社に依頼して当時の新聞を取り寄せた。すると紙面には赤星の快挙が、詳細に報じられていた。かくして六郎の快挙は43年目にして弟子によって確証を得た。が、六郎にとっては『どうでもいい』とのことだったらしい。
《写真・赤星の快挙を報じたパインハーストの地元紙の一ページ》
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