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更新日(2020/11/14)

  アマチュアゴルファーの大物として知られた近衛文隆さん(1915〜1956)は、幼少期からゴルフに親しみ、アメリカ留学(プリンストン大)中は同大学ゴルフ部の主将として活躍している。昭和10年代のこと。当時は日米間の空気が重苦しく、いずれは戦争か、という険悪な時代だった。

近衞文隆さんは留学から帰国後、父(近衛文麿公)の秘書官に就任したため、好きなゴルフを楽しむ時間もなく、アマチュアの競技に出たくとも出られず、悶々とした日を送っていた。

ある日のこと。当時トップクラスのプロとして活躍していた陳清水、林万福の二人に、『いざ勝負!』という挑戦状を叩きつけた。

これが ゴルフ界では大きな話題になり、“ゴルフ界のプリンスがプロに挑戦”として新聞、雑誌で取り上げられた。

米国留学中には、学生ゴルフの日米対抗戦を企画し、殺伐とした日米間の空気を少しでも和らげようと、日本ゴルフ協会(森村市左衛門会長)に協力を要請するなど、大局的な立場で対応する考え方が注目された。

さて、話題のマッチは1939(昭和14)年6月30日、今はない武蔵野CC(藤ケ谷コース)で行われた。36ホールのベストマッチ。プロ組が勝てば賞金。負ければ頭を坊主にするという奇妙な取り決めだった。

同年の日本アマチャンピオン原田盛治さんと組んだ近衞組は、午前のラウンドは善戦したが、午後はプロ組が底力を発揮して3ポイントリードして決着となり、ボース頭になるのを逃れた。

近衞文隆さんはこの競技でのパワーフルなショットが話題となったが、その後、兵役に服し、終戦後シベリアに抑留されて帰らぬ人となり、1956(昭和31)年、夫人に抱かれて無言の帰国をした悲劇の人だった。

《写真・プロに挑戦したマッチの1コマ、左から陳、近衛文隆、林、原田 》