また、関東学生ゴルフ連盟では昭和38年に『関東学生ゴルフ連盟会長杯競技』を新設した。 これは日本オープン、日本プロ、関東・関西のプロ選手権勝者などを集めて行っていた『日本シリーズ』にならい、学生界ビッグゲーム(東京中日杯、関東学生、朝日杯全日本学生、日本学生)の勝者など学生界のベストプレーヤー15人を選んで競った。 ただ、残念なことに第7回(昭和44年)までの記録が現存せず、この間に大会は『会長杯争奪関東学生ゴルフ新人戦』と変わってしまい、詳しいことが不明なのは残念だ。 競技方法も当初の27Hストロークプレーが、第26回大会1988(昭和63)年からは18Hストロークプレーに短縮されて今日に至っている。
戦時中、休眠状態にあった関東学生ゴルフ連盟は、戦後の1953(昭和28)年に復活した。 しかし、事務局を持つだけの財政状態にないため、歴代委員長の連絡先(自宅)等を事務局代わりとして、細々と運営されてきた。 戦後いち早く学生ゴルフの支援に乗り出した朝日新聞社が「これでは不便だ」と、1962(昭和37)年1月、同社企画部内に学連事務局デスクを置くことにしてくれた。
このため学連としての運営能率は一躍、向上したものの、1年ごと役員が変わっていく学生組織では、一般団体のようにはいかず、登録資料や議事録、競技会記録さえ整備されないことが多かった。 そのため、時に詳しいことを知り得ず、この年史の編纂にも不便を感じることが少なくないが、朝日社内に事務局が置かれた年(昭和37年)当時の関東学連登録競技者は1,500名を超えた。 これは同年4月のゴルフ雑誌に載った新聞の切り抜きにあったものだから、当然、新聞のニュースソースは学連であろう。 一説によると、学連の登録者数は最盛期で約2,000人というから、昭和37年の1,500人は、かなりのものということができよう。
ちなみに、もう少し時代が下がって、日本が世界第2の経済大国などといわれるようになってからは、学生の多くは規律や練習が厳しく、公式競技の数も多い“部活”を嫌って、自由にスポーツを楽しむ“同好会”に流れるようになった。 少子化傾向もこれに拍車をかけたため、ゴルフの場合も登録者は逆に減少するようになり、現在は70校、約994人となっている(平成17年12月末現在)。
ついでに付言すると、学連事務局は10年後の1972(昭和47)年、はじめて自立して、港区南青山2−5−3(青山中央マンション506号)に自前の事務局を設けた(昭和56年まで)。 その後、麹町〜神田神保町〜水道橋西口と移り、現在地(千代田区三崎町3−9−3・チヨダビル4F)となった。 データ、資料も完備、専従職員を置き、堂々たる事務局体制である。