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更新日(2012/06/30)
関西で選手権が開かれるのをチャンスに、慶應×関学対抗(昭和28年11月12日、宝塚GC/関学9−6慶應)、 学生東西対抗(11月16日、京都GC/関西8−6関東)、慶應×同志社対抗(11月19日、宝塚GC/慶應11−4同志社)など、 交流試合が相次いだ。 これを契機に関東、関西は相互に、より身近な存在となり、全日本学生連盟組織化へのムードがよい方向へと動き始めた。 あわただしかった1年が終わったあと、1954(昭和29)年には、全日本学生ゴルフ選手権が、日本アマにならって、予選(36ホール・ストレークプレー)決勝(予選ベスト8によるマッチプレー)制度で行われることになった。 全日本学生も戦前は決勝をマッチプレーで行っていた。 また、東西対抗を選手権の開幕前日に実施した。 新方式による全日本学生は7月26日から3日間、我孫子GCで行われ、メダリストになった松本富夫が、マッチプレーの決勝でも土井直治(関学)を8−7の大差で下して2年連続優勝を飾った。 また、朝日招待関東学生(10月25日、霞ケ関CC、36ホール・ストロークプレー)は野村健二が中部一次郎、松本富夫らの同門のライバルを抑えて初優勝した。 この朝日招待関東学生も、翌1955(昭和30)年大会からは予選(36ホール・ストロークプレー)決勝(ベスト8によるマッチプレー)制度で行うことになり、優勝トロフィーが新たに朝日新聞社から寄贈された(現在も伝承)。 競技は野村健二が平川基春(早稲田)を下して2年連続の優勝を飾った。 この両者は高校時代の同級生で、野球はサッカー、平川は野球。 ともにスタープレーヤーとして鳴らし、お互いを意識する存在だった。 進学してゴルフのライバル同士となってからは、平川に運が味方せず、昭和30年の全日本学生では平川が準決勝で野村に勝ったが、翌昭和31年の関東学生でも両者が決勝で対決、野村が平川を抑えて、大会3連覇を達成した。 ちなみに、30年の全日本学生も野村はメダリスト。 平川は野村に準決勝で勝ったが、決勝では石本喜義(甲南)に名をなさしめた。 関西勢の優勝は昭和11年(第2回大会)の古川恒平(関学)以来のことだった。 《写真は、1995(昭和30)年、全日本大学生チャンピオン石本善義(甲南)を囲む、当時の学生ゴルファー》
東西対抗OB戦 昭和20年代の後半、学生ゴルフが再開されて東西の学生交流を目標にした東西対抗、大学対抗の定期船が盛んに行われた。 この時代、母校の名誉をかけて戦った学生ゴルファーたちは熟年の世代に入った。 そこで東西の大学ゴルフ部に在籍したかつての“戦友”が『青春時代よ、もう一度』と東西対抗でしのぎを削った仲間に呼びかけ、昔ながらの東西対抗競技を復活させ、毎年夏季、東京ゴルフ倶楽部で行っている。 参加校は関東から慶應、早稲田、立教、明治、中央などの各校、関西から甲南、関西学院、同志社のOBたちがはせ参じる。 すでに50歳を超えたOBたちは、昔を懐かしみながら18ホールのプレーに汗を流す。 往年の美技があるかと思えば、学生時代には絶対見せなかった凡ミスの珍プレーがあるのは、この東西対抗OB戦ならではだ。 ゴルフが取り持つ友情の絆の強さを感じさせる。
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