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更新日(2012/05/20) 翌昭和24年になると、6月19日に関西ゴルフ連盟(KGU)が、9月1日には関東ゴルフ連盟(KGA)が相次いで再発足した。それから2週間後の9月14日〜15日には、我孫子ゴルフ倶楽部で日本プロ選手権が行われた。 戦前からプロ競技は日本ゴルフ協会の管理下にあった。 実はこの昭和24年の競技は、日本ゴルフ協会の戦後の活動が再開される前に、関東プロゴルフ協会が主催、関東ゴルフ連盟が後援し 『全日本プロ招待競技大会』の名称で行われた(72ホール、参加56人)が、日本ゴルフ協会は優勝した林由郎に授与されたカップが、 戦前から日本プロ選手権優勝者に与えらえれていたものであること、全国から参加者があり、日本プロ選手権としての条件を満たしていると判断、 林からの申し出があったことも併せて考慮した上で、この大会を第12回の『日本プロ選手権』であり、林を優勝者として追認する異例の措置をとった。 これにより『全日本プロ招待競技大会』は戦後初の日本プロ選手権競技として、新しい歴史の1ページを飾ることになった。 戦後、長らく”開店休業”の状態にあった『日本ゴルフ協会 JGA』は、この年(昭和24)の11月16日になって、 ようやく東京・銀座の交詢社で戦後初の総会を開き、新しい門出を記念して、組織を『日本ゴルフ連盟』として改組、発足することを決めた。 終戦直後、戦時中の組織を解散した際、新組織の準備を委嘱されていた井上匡四郎子爵、石井光次郎(現自民党の三役、大臣、日本体育協会会長など歴任) らが中心でまとめたもので、会長制を廃止、理事長制とし、(石井が理事長に就任)競技規則は戦後の価値観の変化に合わせて、米国の新ルールを採用 (ただし、使用ボールは従来の英国式スモールサイズも使用可)とした。 また、戦前通りのアマ、プロの日本選手権と東西対抗、日本オープンなどの復活を決め、翌25年から実施した。 8年ぶりに再開された日本アマの戦後初選手権は、学生ゴルフ出身の月本啓二(東京)がベスト16によるマッチプレーの36ホールの決勝において、2−1で岡田卯一(宝塚)を下して優勝。 日本プロは林由郎が2連覇し、日本オープン選手権にも優勝して”林時代”を築き、戦後のこの時期、大いに名を挙げた。 ちなみにこの年(昭和25)6月、日本ゴルフ連盟は発足後の初総会で、連盟の名称を従来通り『日本ゴルフ協会』に戻すことを決めた。 関東・関西のゴルフ連盟という『結社』の上に『日本連盟』という結社を置くことはこのましくない。 旧日本ゴルフ協会は、クラブを加盟単位として組織されてきた、というのが提案者の主張だった。 これには出席者全員が賛同、『連盟』は半年で『協会』に戻った。 いずれにしろ、ゴルフ界の組織も、競技会もこの年をもって落ち着くべきところに落ち着き、来るべき”繁栄の時代”へ向かって、新たなるスタートを切った。 学生ゴルフ界の復興もこのころから、ようやくにして始まった。
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