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関東女子学生選手権、日本女子選手権、相次いで登場 番組名:学生ゴルフの足跡

更新日(2012/08/30)

 昭和38年11月には関東女子学生選手権、翌39年8月には日本女子学生選手権が相次いでスタート、女子学生の競技も、男子と肩を並べる活況となった。 関東女子学生選手権は41年の大会からは7月に開催されることになったため、女子には7、8月の夏休み期間に2つのビッグイベントと取り組むことになった。

昭和40年代の初頭に花形となったのが井福羽留子。 増永と同様、高校生(日大桜ケ丘)で関東女子学生に初優勝、42年大会まで4連覇、日本女子学生にも41年、42年と優勝した。 医師の家庭に生まれ、体は細くて小さかったが、祖父母に教えられとてもうまいゴルフをした。 自分も医学部へ進むため、3年で競技者生活をやめ、初志を貫徹して医師になった。 ゴルフ界にとっては惜しまれることだったが、文武両道に秀でるというか、スポーツ界にこういう人がいたのは、すばらしいことだ。

一方、男子競技では、日本学生選手権が最初からマッチプレーだけで行われるという珍しい出来事があった。 これはアメリカがナショナル(アマ)選手権で行っている方法を、日本にも導入したらどうかということで、そのテスト・ケースとして実施されたものだ。 当時、学生ゴルフは日本ゴルフ協会の加護下にあったため、学生界の意思とは無関係に行われた。 昭和38年8月28日から4日間、狭山GCに関東、関西両地区から64人を選抜してマッチプレーで争われ、中部銀次郎(甲南)が過去2連覇した小室秀夫(明治)の弟、輝夫(明治)を10−8の大差で破り優勝した。 しかし、大会後、「この方式はやっぱり本来の方式に戻すべきである」との声が強く出されたため、この回限りとし、翌39年からは従来と同じ予選36Hストロークプレー、決勝(16人)36Hマッチプレーの方式に戻った。

関東学生男子では、戦後、途絶えていた対抗戦(リーグ戦)を復活させた。 ただ、女子同様加盟校が増えたため、ブロック制を採用することになり、まず、参加13校によるブロック決定戦を、1959(昭和34)年4月21日に大洗GCで挙行。 1校5選手が出場し、ベスト4の合計スコアを争った結果、Aブロックは慶應、早稲田、中央、学習院、明治の5校。 Bブロックは成城、上智、立教、日本、武蔵、法政、東京、成蹊の8校と決まった。

これにもとづいて『第1回関東大学対抗Aブロックリーグ戦』(昭和34年5月11〜26日、大洗GC)が実施され、4戦全勝で慶應が優勝以下、早稲田、明治、学習院、中央の順だった。 また、東京中日新聞は、女子についで男子学生のための『東京中日杯争奪関東学生ゴルフ競技会』の後援を始めた。 「チャンピオンシップ競技を体験するため」に、学生ゴルフでは初めての72ホール・ストロークプレーを企画したが、創設大会は昭和34年12月21日に36ホール・ストロークプレーで東京GCで挙行、法政の谷田穣が優勝した。

この昭和34年の時点で、関東学生ゴルフ連盟での競技は.蝓璽粟錙塀媾)∩手権 E豕中日杯(男子、女子)が出揃い、内容的にも充実してきたが、さらに翌35年には学生の技術を図るため『関東学生ゴルフ・シングル研修会』が創設され、学生ゴルフの当時の関東アマチュアのトップクラスと同伴プレーし、助言を受けながら腕に磨きをかけることになった。

戦後の復興期このかたのコース難もあって、関東学生ゴルファーの練習量は必ずしも十分とはいえなかったが、昭和30年代に入ると、技術も目に見えて向上、中心勢力である慶應勢の独走に「待った」をかける他校プレーヤーも出てきた。 その一例が、『第1回東京中日杯』に優勝した法政の谷田穣であり、翌1960(昭和35)年の関東学生選手権(7月13〜15日、鷹之台CC)の決勝を立教同士で争った(佐藤俊紀6−5原延章)ことなどにも見られる。 さらには昭和36年の日本学生選手権(8月28〜31日、武蔵CC笹井コース)決勝では、明治の小室秀夫が早稲田の内田伸之を破った。 明治から学生のナショナル・チャンピオンが出たのは、戦前の昭和14年以来、実に22年ぶりのことだった。

これに先立ち、昭和34年5月の『関東オープン』(鷹之台CC)では慶應3年生の柿本亮司がベストアマとなり、同年10月の『関東アマ』(鷹之台CC)決勝では法政の田中誠が、学生ゴルフ出身の大先輩・金田武明(相模)を1アップで振り切って優勝した。 学生プレーヤーのレベルが『学生』の枠内にとどまらず、国内アマのトップにも近付きつつあることを示すものだった。

《写真は、日本の女子学生ゴルフ界に新風を吹き込んだ井福羽留子(日本)、文武両道を達成した。》