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敗戦から復興へーゴルフ場も「占領下」に 番組名:学生ゴルフの足跡

更新日(2012/05/10)

 1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇はラジオを通じた、いわゆる玉音放送で、日本がポツダム宣言を受諾して、米・英・ソ連・中国など連合軍に無条件降伏したことを国民に知らせた。

日本は1931年の満州事変に始まる日中戦争〜米英を相手にした太平洋戦争(これをひっくるめて15年戦争という)の2つの戦いに敗れた。沖縄を米軍に占領され、広島、長崎に原爆が落下され、軍人・一般国民併せて300万人を超す犠牲者を出したあげくの敗戦だった。

主要都市の大半は連日連夜の米軍による空爆で焼野原となり、大都会生活者の多くは、住む所はもちろん、食べるものも、衣類もない悲惨な状態で、 電車やバスに乗るのも一苦労の時代だったから、戦争が終わったからといって、すぐにゴルフをやれる状況ではなかった。次々に戦場に駆り出され、尊い生命を失った学生ゴルファーも少なくない。

ゴルフ場そのものも、戦時中、食料生産のために開墾され、麦畑やイモ畑に化け、あるいは来襲する米爆撃機に対抗するための高射砲陣地として使われたりしていた。

マッカーサー元帥(米国)を総司令官とする連合軍の占領軍が進駐してくると、東京を中心とした各地の焼け残った主要な建物は、軍務や居住施設として接収され、 ゴルフの東京、霞ケ関、小金井など名門クラブも水泳プール、テニスコートなどとともに、家族ぐるみの娯楽施設として接収され、占領軍の支配下に置かれた。

彼らはブルドーザーを持ち込み、日本人労務者を使ってコースを復元したので、その意味でゴルフ場の復興は早かったものの、 日本人プレーヤーには手の届かない存在のまま、数年を経過した。

戦時中、スポーツの国策遂行機関として組織された『大日本体育会』は、戦争直後の1945(昭和20)年10月5日に解散し、 同年末の12月28日、民間団体の『日本体育協会』として再発足した。 『大日本体育会』傘下の『ゴルフ部会』も解散の上、『日本体育協会』に再加盟したものの、前述のようにゴルフ場の多くが使える状態になく、 またかつての中心的な人々の所在もバラバラで、ただちに活動を始めるには至らなかった。

しかし、他の主要なスポーツの復活への動きは、きわめて早かった。 敗戦からわずか3カ月後の昭和20年11月には大相撲が秋場所で復活。 翌21年にはプロ野球ペナントレース、東京六大学野球リーグ戦、いまの全国高校野球の前身、全国中等学校野球などが再会された。 新生の日本体育協会による新しい事業で、”オリンピックの国内版”ともいうべき『国民体育大会』(国体)も立ち上げられ、21年8月には夏季(水泳)大会、11月には秋季大会がスタート。 国民の生活に”元気の素”を吹き込んだ。

こうした動きに比べると、ゴルフ界再興への立ち上がりは少し遅れた。 しかし、占領軍が”占領”していた多くのゴルフ場も、やがて人数を1日何人と限って、もともとのメンバーである日本人プレーヤーにプレーを認めるようになり、 さらには競技会開催のために便宜を図るようにもなった。 1948(昭和23)年8月には、東京ゴルフ倶楽部(占領軍接収当時は『横田ゴルフクラブ』といった)を借り、戦後初めての競技会として関東プロ選手権が開催された。