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15年戦争の非常時、「ゴルフ」は「打球」に・・・ 番組名:学生ゴルフの足跡

更新日(2012/03/12)

 こうした学生ゴルフ界の盛況も長くは続かなかった。理由は戦争である。

1931(昭和6)年、満州事変の勃発を機に、日中戦争(1937〜1945)から太平洋戦争(1941〜1945)へと、昭和の日本は、いわゆる”15年戦争”の時代へと突入する。 このため、1936(昭和11)年に開催が決定した東京オリンピック(1940年開催予定)も準備半ばの1938(昭和13)年には返上のやむなきに至った。

原材料はじめとする輸入品のストップ、軍需生産優先のため、生活物資が年を追って欠乏し、その影響は当然、スポーツに及んだ。 ゴムが貴重品となったため、ゴルフ・ボールは早くも1939(昭和14)年から、クラブごと配給制となった。 日本ゴルフ協会(JGA)が加盟していたスポーツ界の全国統括団体『大日本体育協会』は、1942(昭和17)年には時の首相・東条英機を会長とする『大日本体育会』に組織変えさせられた。 名称はたった1字違いだったが、中味は大違い。

前者は有志の結成した民間団体だったが、新組織は国策遂行のための官制組織で、目的は国民の体位向上、体力増強だった。 加盟各スポーツ団体はいったん解散させられ、改めて『部会』として組み込まれた。 そして、英語が『敵性語』として徹底的に排除され、このため、各スポーツ部会の名称はいうまでもなく、用語、ルールなどもすべて カタカナから新しく漢字表現に変更された。ゴルフは『打球』と名称変更した。

ゴルフは、一部の限られた人々のスポーツと見られていたため、軍部の中には、この際ゴルフをつぶしてしまおうと考えた者もいた。 そこで、当時、JGA理事長だった石井光次郎(戦後、副総理/日本体育協会会長)は「ゴルフの起源は奈良朝の宮廷行事に始まる打毬(だきゅう)である。 西洋スポーツではない」と述べて軍部をけむに巻き、危うく難を逃れたというエピソードまで生まれた。

同じゴルフの中でも、学生ゴルフは「非常時なのに学生のぶんざいで」という見方もあり、風当たりが強かった。 これに対するため、1939(昭和14)年の第5回全日本学生選手権競技では、”非常時型ゴルフ”として使用クラブを10本以内に制限した。 同年、さらにゴルフは遊びでなく、心身の鍛錬のためと称し『耐熱、耐久体育ゴルフ』を設けた。 5日間、通算10〜12ラウンドをプレーするマラソンゴルフだった。 同趣旨の競技は翌昭和15年にも『72ホール体鍛ゴルフ』として行われた。 セルフバッグで回り、キャディは旗を持つ時だけ付いた。

《写真左が、石井光次郎氏》