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更新日(2012/03/05) 1938(昭和13)年7月に、専門誌『ゴルフ』(目黒書店発行)の表紙に、 先述の明治大学のエース、久保田瑞穂が載った。 学生プレーヤーの表紙登場は、これが初めてであり、学生プレーヤーのウエイトが増してきたという、新しい時代の到来を示唆するものだった。 久保田は、この年の7月、全日本学生選手権で、予選(36Hストロークプレー)首位のメダリストとなった後、 マッチプレーにも抜群の力を発揮して優勝し、栄えある大谷・森村杯の受賞第1号となった。 さらに、10月30日〜11月1日に行われた第1回関東アマチュア選手権(我孫子GC)に優勝、現役学生ということで話題となった。 この優勝で久保田は、三好徳行とともに翌1939(昭和14)年1月、フィリピン・オープンにも参加。 この年の全日本学生選手権では、久保田は準優勝で原田盛治(帝大)に敗れたが、 学生としての戦前最後の公式競技会となった翌1940(昭和15)年の全日本学生選手権では、 見事、原田を決勝で下し(12-10の大差)、チャンピオンに返り咲いた。 一方久保田のライバル、原田盛治は1933(昭和14)年に大活躍した。 5月に武蔵野カンツリー倶楽部藤ケ谷コースで開かれた日本アマチュア選手権競技決勝で、 それまで3連覇していた佐藤儀一(広野)に7−6で快勝、学生プロゴルファーとして初の優勝を決めるとともに、 22歳で史上最年少のチャンピオンに輝いた。 この優勝がフロックでなかったことは、原田が出なかった翌1940(昭和15)年の日本アマのチャンピオンに佐藤儀一が返り咲き、 4度目の優勝を記録できたことでもわかる。 原田はこのあと、5月に新霞ケ関ゴルフ倶楽部が主催した学生招待競技にも優勝、7月の第5回全日本学生(武蔵野・藤ケ谷)でもメダリストとなった余勢をかって優勝した。 この原田の活躍のバックグラウンドとして、母校・東京帝大に教授陣を含めたクラブが発足したことが挙げられる。 帝大では、教授のゴルフ会と学生のクラブが昭和の初めから組織されており、学生のクラブは当初、関東学生ゴルフ連盟には加盟しないまま、対外活動をしていた。 この帝大で1938(昭和13)年7月15日、2つのクラブが合併して『東京帝大ゴルフ倶楽部』が誕生した。 同日、武蔵野カンツリークラブ六実コースで教授×学生の記念対抗マッチを行い、学生が勝った。 こうして、全学を打って一丸とする体制の確立が、帝大の学生ゴルフに刺激を与えたことは間違いない。 翌1939(昭和14)年の全日本学生ゴルフリーグ戦では、原田の活躍を軸に、帝大が4戦全勝で優勝を決めた。 《写真は、日本アマチュア選手権で、史上最年少で優勝した原田盛治》
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