更新日(2022/11/22)
日米の開戦直前まで、総理大臣を務めていた故近衛文麿の長男である文隆さんは、戦前の日本のアマチュアゴルフ界では、日本ゴルフ界の新星と騒がれるほどの逸材だった。 文隆さんは16歳の時、日本アマチュア選手権に出場して、予選では当時、実力者といわれた相馬孟胤さん、高畑誠一さんに続いて3位タイのスコアで予選を突破という最年少記録を作って話題になった。 1932(昭和7)年にはアメリカ留学に旅立ち、ローレンスビルの予備校に入った。入学後のこと、その学校のゴルフコース(パー68)で行われた競技会で2アンダーのスコアを出してたちまち評判になった。翌年にはフロリダに旅行に出てアメリカのトッププロたちのプレーを見学したり、レッスンを受けたりして力をつけ、学校対抗やパインハーストでの競技会で活躍した。 プリンストン大学に入学し、チームのキャプテンに選ばれるなど、ローカル競技でも活躍した。 アメリカ留学中のことだが、こんなことがあった。パインハーストでの競技中、エール大学の主将と対戦した。相手は近衛にリードされ、アンフェアな態度に出た。しかし勝負は近衛が勝った。観戦していたアメリカの弁護士が、自国の選手の非を唱え、近衛のフェアな態度を褒める書状を送ってきた。 近衛文隆の態度はいくらゴルフがうまくても、近衛家の長男として所詮ゴルフはゴルフと割り切っていたとのこと。 その頃の文隆は『日米が親密になれば、世界平和の確立が出てくる。それを重視し得るものは広く世界を見たものだけだ』という意味のことをもらしていた。しかし1956(昭和31)年のこと、イワノボの収容所で病死したことが伝えらえた。『もう少し頑張っていたら、日本に帰れたのに…』と文隆さんを知る友人たちは彼の死を悔やんだ。 《写真・文中の近衛文隆》
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