日本語で苦労した《孫ちゃん》 番組名:孔球偉人列伝

更新日(2022/01/27)

  日本のゴルフは1957(昭和32)年、日本で初めて開かれた第5回カナダカップゴルフ(国別対抗ゴルフ)で急速に普及の道を歩き出した。それまでゴルフといえば、お金持ちの道楽とみられていた。急速に普及の道を歩き出した裏には、テレビの中継放送により、ゴルフというスポーツが茶の間に入ったことが大きい。地元の日本は、中村寅吉の奮闘によって団体戦、個人戦を制した。が、中村の裏に隠れて奮闘した『小野光一』(ニックネームは孫ちゃん)の存在が大きい。中村にスポットが当たるので、小野の存在は忘れ去られがちだが、ここでは影の存在だった小野にスポットを当ててみよう。


  ◇小野光一(旧名は孫士均)

  出身は旧満州の大連。1937(昭和12)年の18歳のとき、プロゴルファーを目指して日本にやってきた。当初は埼玉県の霞ケ関カンツリー倶楽部に勤めていたが、すぐ横浜の程ヶ谷カントリー倶楽部に移った。来日3年目に日本プロ選手権の予選で4位タイになって注目された。戦後は1951、1953、1955年に優勝し、1955年には日本オープンに勝っているが、なんといってもカナダカップでの優勝が目立っているが、人気の面では今一つ、パッとしなかった。

  理由はプレー中に失敗するとよくカー!とするのでマナーが悪いプロといわれたからだ。

  その上、日本語の使い方が下手だった。

  しかし1954(昭和29)年に晴れて小野光一を名乗れた。その翌年には日本人としてカナダカップ(ワシントン)に出場できた。日本語が下手だから日本国籍取得するのに随分と苦労している。

  程ヶ谷カントリー倶楽部には若いプロが大勢いたが、小野がコースに姿を現すとそそくさと逃げた。若手は『北風の大将』と呼び煙たがった。小野は若者に『近頃の若者は…』と、どやしつけたらしい。

《写真:カナダカップで優勝し、パレードに繰り出した中村(右)と小野(左)とカナダカップ実現に骨折ったJGAの野村副会長(中央)》