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更新日(2014/12/23) 富山県の呉羽CCの所属プロだった鑑(かん)田茂さん(78)が去る10月20日、78歳で亡くなった。鑑田さんといっても最近のゴルフ愛好家にとっては馴染みが薄かろう。だがオールドファンにとっては懐かしい名前だ。 鑑田さんは昭和11年、東京・町田市に生まれた。高校時代に相模CC(神奈川県大和市)でアルバイトキャディーをやったのがきっかけでゴルフの道を歩き出した。当時、相模CCには井上清次、棚網良平、八木庄蔵といった戦前派の腕達者なプロがいて、その下でプロとしての修業を重ねた。技術に留まらず、作法に至るまで先輩プロから厳しく仕込まれながら成長した。 昭和33年、晴れてプロテスト競技に合格。翌34年の秋、隣接する相模原GCで行われた日本オープン選手権が新人、鑑田さんにとってはデビュー戦だった。強く打てば飛ぶ。曲がらないが自慢の新人プロは、第1ラウンドを-5の69で回り、ベテラン勢を抑えたトップに立って周囲を驚かせた。怖いのも知らずの若さでの初陣だった。結局この時、鑑田さんは通算298で3位に入った。プロ2年目にしては出色の出来だった。優勝した陳清波とは僅か2打差。陳はプレーオフで島村祐正を下して初優勝をとげた。 プロとしては順風満帆のスタートだったが、しかしトーナメントでは思うような成績を残せなかった。心機一転を図り、富山県の呉羽CCに移ったのは昭和46年だった。東京生まれの鑑田さんにとっては縁の薄いところだった。だが、俱楽部プロとしての力が発揮できた。会員に対するレッスン上手、接客時の低姿勢、コース管理に関する豊富な知識さが生かされた。相模CCでの修業時代に身に付けた豊富な知識が開化したのだ。ゴルフ場側としても頼りになるプロとして重きをなした。 しかし、数年前から筋萎縮性索硬化症という難病にとりつかれ、この7月から入退院を繰り返しながら愛娘の金谷ゆかりさんに見守られながら78歳でプロゴルフの生涯を閉じた。 トーナメントプロとして一旦は花を咲かしかけたけれど、一転して俱楽部プロとしてあるべき姿を歩き、結果として多くの富山のゴルファーに厚い信頼を得た。日本古来の俱楽部プロのしきたりを身に付けていた最後のプロだった。 《写真・昭和34年、新人ながら日本オープンの第1日でトップに立った鑑田さん〜相模原GCで》〆
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