更新日(2017/02/25)
さて、この対抗戦が日米親善のために大いに役立つと確信した大使は、寸暇を割いては会場に駆け付けて応援した。そればかりではない。在留邦人に呼び掛けて遠征プロたちによるレッスン会を開いた。プロのために小遣い稼ぎの場を作っては遠征したプロたちを激励もした。 このころ外交面では日米間の空気は険悪で、同大使は少しでもいい方向に向けようと日夜努力をしていた。 しかし、日夜の激務に耐えかね病魔に侵されて1939(昭和14)年の春、不帰の人となった。 日米和平のために努力をした斉藤大使の死を悼んだ時のルーズベルト大統領は、大使の足跡を高く評価し、遺骸を軍艦アストリア号で日本へ送り返してくれた。この時、遺骸を迎えた外務省の代表はNHKのニュース解説で有名だった平沢和重さんだった。 この年の4月17日、東京・築地の本願寺で斉藤大使の外務省葬が行われた。駐日米大使のジョセフ・グルーさんが弔辞を読み大使の死を悼んだ。 大使の遺骸を運んだアストリア号儀仗隊の指揮官はウィリアム・ティスディル海軍中尉(30)。奇しくも故斉藤大使のゴルフ友達で、葬儀場でこんな思い出話を披露している。 『儀仗隊の一員として故大使のお供ができたことを嬉しく思いますが、大使の死は悲しい。大使とは1936(昭和11)年、初めてお会いし、ワシントンのゴルフ場で、その後バーニングツリー倶楽部でしばしばお伴をし、官邸でも晩餐を共にしました。大使のゴルフは外交官仲間では強い方ではなかった・・・』 ゴルフが取り持つ奇縁の物語の一つである。 《写真・米国に遠征した6人のプロの最年少の戸田藤一郎と談笑する斉藤博・駐米日本大使〜右》
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