更新日(2007/09/21) 今夏のゴルフ競技は、かの石川遼君が大望の日本ジュニアゴルフ選手権(埼玉県・霞ヶ関CC=15歳〜17歳のクラス)に優勝し、本物の実力を立証しました。ジュニアといえば日本には戦前から国際競技に通用する若い優秀なゴルファーが沢山いました。だが若くしてこの世を去った方もいます。ゴルフ界の麒麟児といわれた名ゴルファーのある日の姿を紹介しましょう。花の命は短くて・・・とは本当でした。 近衞文隆(このえ ふみたか)さん もし、この方がご存命ならば、お父上の近衞文麿公同様に、政治か外交面で重きをなしていた、と想像されます。昭和7年、留学のため渡米し、後にプリンストン大学に学び、帰国後、首相に秘書官を務めました。昭和15年、日本陸軍の将校としてシベリアに出征しましたが、戦後はソ連に抑留され、イワノフの捕虜収容所で昭和31年に亡くなった悲劇のゴルファーです。昭和6年、16歳で日本のアマチュア選手権に出場し、アマチュアの東西対抗の関東代表にも選ばれているなど、若くして大器の片鱗を発揮しました。ゴルフは豪快無比。当時、ヒッコリシャフトのドライバーで、250ヤードを超えるロングショットを放っていました。首相秘書官という公務についていていたため、日本の競技に出場に機会に恵まれず、チャンピオンとしてカップに名を刻んでいませんが、日本が生んだ最高のアマチュアゴルファーといえる方でした。(昭和31年、41歳で没) 原田盛治(はらだ もりはる)さん 昭和10年に関東学生ゴルフ連盟が結成され、その時代から注目されたゴルファーでした。160cmの小柄ながら鋭いショットを放ち、たちまち、学生界ナンバーワンの座を獲得して天才ゴルファーといわれました。昭和14年、東京帝国大学の現役学生ながら全日本学生、関東アマチュア、日本アマチュアの各選手権を総なめして一躍、時の人になりました。原田さんは旧制の浦和高校から東大に進みました。受験勉強にため1年間はゴルフと決別し受験勉強に没頭したというエピソードの持ち主でした。しかし戦後は軍隊生活の無理がたたって体調を崩し、戦前のようにクラブを振ることもなく、名プロ宮本留吉さんを支援して銀座にプロショップを開店させるなど、好きなゴルフに情熱を傾けていました。学生時代に日本アマチュア選手権を制覇するのは至難の業といわれていましたが、原田さんはこれを達成したことが天才といわれた由縁です。(昭和32年、41歳で没) 久保田瑞穂(くぼた みずほ)さん アマチュアながらクラブ修理はこなす、プロも真っ青という多彩なショットの持ち主で、古いプロたちは『アマチュアらしからぬアマチュア』といわれたゴルファーです。クラブ修理の達人らしくエンジニアの父親が海外に出張した折、土産にクラブ修理用に『万力』を頼んだという逸話があります。久保田さんはこれを利用してプレークラブのバランスやスウィングウェートを調整したそうです。当時、こうしたクラブを調整する技術が広く知られておらず、プロ連中が久保田さんに教えを乞うたということです。ゴルフ技術もアマチュアのトップレベルにあり、昭和13,15年の2度にわたって全日本学生選手権に優勝、同13年創始された関東アマチュア選手権の初代チャンピオンです。(昭和21年、30歳の若さで他界)。
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