| テストケースとして実施された64人のマッチプレー |
番組名:学生ゴルフの足跡 |
更新日(2012/01/02)
この年の学生選手権は従来の競技方法を捨てて、関東、関西から各32人を選び、計64人によるマッチプレーで優勝を争うという画期的な競技方法を採用した。USGAのアマチュア選手権を倣ってのことだった。発案者はJGA競技委員長の小寺酉二である。昭和34年、日本学生ゴルフ選手権の開催権は全日本学生ゴルフ連盟から日本ゴルフ協会に移管され、すべてJGAの手で運営されていた。
なぜ、最初からマッチプレーを採用しようとしたのか。理由はこうだ。もともとアマチュアの選手権競技はマッチプレーで争われるのが伝統であり、原則である。
小寺は日本アマでも、この競技方法を取り入れたいと考えていた。だが日本アマにいきなり導入となると抵抗が多い。そこで『学生ゴルフ選手権なら問題ない』(小寺)と判断し、テストケースとして実施に踏み切ったのだ。小寺は開催コース狭山GCの理事長だったことから計画は万事円滑に進んだ。
小寺は『学生たちは関東、関西でストロークプレーを重ねる必要はない。それにマッチプレーは時間的にも消化が早い』という意見を持っていた。
この年の大会は中部銀次郎(甲南)と小室輝夫(明治)が最後に勝ち残り、優勝(36ホールマッチ)を争った。中部は37年の日本アマチャンピオン。小室は36,37年の日本学生のチャンピオンになった小室秀夫の後を受けた明治のホープだった。しかしハンディキャップは中部の3に対して小室は10.実力差に大きな隔たりがあった。だが小室は午前の6番まで1アップと善戦した。ところが7番でドライバーショット、アプローチショットの連続ミスが響き、中部に追いつかれた。
午後の18ホールは『体当たりで行きます』と意気込んだが闘志は空転した。結局10−8の大差で中部は日本学生3度目の出場で初優勝を手にした。中部の実力は抜群だった。
その優勝はさることながら、この大会での小室の善戦健闘ぶりは、中部の優勝に負けず話題になった。3回戦で強豪、森永正隆(慶應)を5−4で破り、準々決勝では関西の実力者、吉川隆之(甲南)に2−1で辛勝した。この試合は小室の巧妙な心理作戦が吉川のリズムを狂わせ、まさか、よもやの勝利を収めた。さらには準決勝では藤木隆夫(慶應)を僅差の1アップで倒すという大健闘だった。だが最後の中部相手の争いは、それまでの勝利の女神は小室には微笑んでくれなかった。
さてこの競技方法は吉だったのか、それとも凶だったのか。翌39年から16人を選抜の従来の方式に戻ったところをみると、アマチュアゴルフ界では歓迎されなかったようだ。この年も中部が勝って、連続優勝を遂げた。日本学生ゴルフ選手権ではマッチプレーは昭和43年まで。翌44年からはストロークプレイに変わった。これで学生の協議からマッチプレーが遠のいた。ゴルフ競技の原点であるマッチプレーが次代を背負う学生ゴルファーに馴染みないものになったのは、このあたりに原因がありはしまいか。
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