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更新日(2012/08/10) 日本ゴルフ協会(JGA)が復活し、昭和も20年代後半になると、太平洋戦争で壊滅的打撃を受けた日本経済が再建の軌道に乗り出したことと相まって、ゴルフ界の動きも活発化してきた。 全日本学生ゴルフ連盟の結成もその一環として捉えることができる。 そこで、まず、この前後のゴルフ界に、しばし、目を転じてみたい。 1953(昭和28)年の秋、『ワンパット10万円のスリル』をうたった『読売プロゴルフ選手権』(10月30〜31日、程ケ谷CC)が開催された。 賞金総額が100万円、優勝・2位・3位の賞金が30万・20万・10万円と、10万円差で、1打の違いが10万円に相当することからこのキャッチ・コピーが生まれた。 今ならだれも驚かない金額だが、大卒の初任給が8千円の時だから、人々の耳目を集めるには十分だった。 林由郎が優勝した。 この大会は企業が冠スポンサーになって開くイベントの戦後のはしりとなった。 もうひとつ、昭和20年代末から30年代初頭にかけての出来事で注目すべきは、国際交流、対外遠征が復活したことである。 戦前の対外遠征はアメリカ遠征が昭和10年、マニラのフィリピン・オープン参加が昭和15年を最後に、国際情勢の悪化で中断して以来、戦後の昭和22年まで途絶えていた。 しかし、1952(昭和27)年、シカゴのタモシャンタで行われたオールアメリカン・トーナメント/世界プロゴルフ選手権への4人のプロ(林由郎、中村寅吉、島村祐正、石井廸夫)の出場で、再び扉が開かれた。 ついで日本は昭和29年から『カナダ・カップ』(現ワールドカップ)出場の機会を得た。 このイベントは、”ゴルフのオリンピック”とも呼ばれ、世界初の原子力潜水艦ノーチラス号の建造で知られるジョン・ホプキンス(米国)が、原子力の平和利用を願って提唱したもので、1国2人出場でチームと個人のタイトルを争う競技。 昭和28年に始まり、この時、日本は参加できなかった。 しかし、外務次官・駐米大使・駐カナダ大使を歴任した井口貞夫がこのことを知り、直接ホプキンスと掛け合って翌年から日本の参加が実現した、といういきさつがある。 このカナダ・カップの第5回大会が1957(昭和32)年10月24日から4日間、霞ケ関CC(東コース)で開催された。 戦後の日本ゴルフ界が迎えた初の、そして29ケ国代表が覇を争う大規模なこの国際競技は、国際ゴルフ委員会(IGA)、JGA、読売新聞社の3者が共催した。 JGAが呼び掛けた負担準備金の募金は目標を大きく突破する616万円が集まり、入場券の実売数は1万5579枚に達した。 競技の模様は日本テレビをキー局とするネットワークで放映された。 これが日本初のゴルフの中継放送となった。 競技の結果は中村寅吉、小野光一の日本が団体優勝し、個人も中村が制し地元日本が2冠に輝くという、願ってもない成果を挙げることができた。 それまで日本では、ゴルフはポピュラーなスポーツとはいいがたかったが、このカナダカップの広範なメディア報道を通じて、多くの人々の知るところとなるとともに、ゴルフ大衆化の糸口の役目を果たした。 一方、ホームコースの利があったとはいえ、日本の2冠制覇は米国をはじめとする世界各国にセンセーションを巻き起こした。 同時に、国内ではプロ、アマを問わず第一線でプレーする人々に大きな励みと勇気を与えた。 いずれにしろ、カナダ・カップの日本開催は日本ゴルフ界の将来展望に大きな一石を投じ、特筆すべき1ページを記録した。 カナダ・カップの成功に気をよくしたJGAは、ついで、本来の任務であるアマチュア振興の一環として、1958(昭和33)年1月にマニラで開かれた第6回極東オープンに三好徳行(昭和28〜30年・日本アマ3連覇)と大橋一元(昭和32年全日本学生、朝日杯全日本学生優勝)の2人を派遣した。 アマ選手の海外派遣は、これが戦後初めてだった。 続いてJGAはこの年8月、“ゴルフのメッカ”セント・アンドルース(英スコットランド)で開かれた『アイゼンハワー杯世界アマチュア・チーム選手権』の創設大会に野村駿吉キャプテンと石本喜義、小栗市三、芝本順三、鍋島直泰の4選手を送った。 この大会はカナダ・カップ東京大会の折、JGA副会長の野村がUSGA(米国協会)にアマチュアの対抗競技を提案したのがきっかけで、世界35カ国の協会・連盟をメンバーとする『世界アマチュア・ゴルフ・カウンシル(WAGC)』が設立され、2年に1度の世界大会がスタートした。 この一事からもわかるように、野村は戦後の日本ゴルフ界の国際進出に大きな貢献をした。 ちなみに優勝国に授与されるトロフィには「世界の人々の間に、友情とスポーツマンシップを、ゴルフを通じて育て養うこと」の文言が刻まれている。
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