| あなたもゴルフ通に!歴史、人、技術など様々な角度でゴルフの魅力をご紹介してゆきます。 |
検索結果:332件
日本にゴルフというスポーツが登場したのは1900年代の初めで、神戸に住んでいたイギリス人たちが母国のスポーツをしのびながら六甲山上にあった別荘の庭に3ホールのミニコースを造ったのが始まりといわれている。
赤星四郎の提唱と石井光次郎の協力で同協会が誕生したのは1931(昭和6)年で、JGAが日本プロゴルフ選手権を創始した年である。赤星と石井は加盟各楽部のキャプテンに呼びかけ、支配人の協力を得て協会の創立に漕ぎ着け、同時に選手権の開催と賞金の寄付を働きかけた。協会の会長は森村市左衛門、事務局長に程ヶ谷カントリー倶楽部支配人の加沼豊がついた。
1924(大正13)年に創立された日本ゴルフ協会には四つの根幹事業があった。日本オープン選手権の開催、ゴルフ規則の制定ハンディキャップ制度の確立、東西対抗競技の開催である。そのうちの東西対抗にはゴルフ好きで知られる東久爾、浅香、李の3宮殿下杯がかけられていた。しかし、この競技は1970(昭和45)年に三重県の四日市カンツリー倶楽部で開催された大会を最後に廃止されたままだ。
1903(明治36)年、日本にゴルフ場が誕生してバッグを運搬するキャディーは少年に限られていたが、戦時中に習慣が変わってしまい、女性が登場した。
日本にゴルフが持ち込まれたのは明治36年(1903)のこと。当時、神戸に住んでいたイギリス人たちが望郷の念に駆られ、神戸・六甲の山上に3ホールのゴルフコースを造ったのが日本とゴルフの結びつきだった。
日本のゴルフを語る上で、赤星四郎、六郎兄弟のことを抜きにできない。かつて大谷光明、高畑誠一が持ち帰った英国流の古いゴルフをアメリカ流に変えたのは赤星兄弟だった。
日本で行われているスポーツには全国規模の選手権を筆頭に地区選手権や東西対抗といった種目があり、そのスポーツの振興、技術向上に狙いを置いていた。しかし普及の度合いが進み、交通機関が発展し競技人口が増えるに従って東西対抗戦という種目は姿を消した。
日米の開戦直前まで、総理大臣を務めていた故近衛文麿の長男である文隆さんは、戦前の日本のアマチュアゴルフ界では、日本ゴルフ界の新星と騒がれるほどの逸材だった。
女子アマチュアゴルフの日本女子選手権は、1959(昭和34)年の創始である。当時、日本の女子ゴルフ界は戦前派のオールドタイマーが主流で、若い女子ゴルファーが食い込む余地はなかった。ところが翌1960(昭和35)年の大会は様相が一変した。
話は少し、古くなるが軽井沢のあるゴルフ倶楽部で会員を対象にした理事長杯競技に、理事長が優勝して優勝カップをだれが渡す、と大騒ぎになった話がある。
1968(昭和43)年の12月のこと。TBS(東京放送)の主催で、TBS女子オープンゴルフ大会が、埼玉県の越ヶ谷ゴルフコースで開催された。女子オープンゴルフといっても、その当時は正規のプロ制度はなく、女子プロの夜明け時代だった。当時、TBSでは今日の女子プロの隆盛を予測していたわけではないが、TBSの社長をしていた今宮氏が、TBS幹部の朝礼で『TBSが主催して女子オープンゴルフ大会をやる』と突然の発言があったそうで、その年の12月に大会が開催された。コースはTBS関連の企業が運営していた河川敷のゴルフコースだった。
1961(昭和36)年の秋、米国女子プロの大御所パティー・バーグが用品メーカーの支援で来日した。バーグはアメリカにおける女子プロの先駆者で、女子プロの地位を確かなものにした大立者だ。
ゴルフ技術の上達にはプロの指導は不可欠だが、いざレッスンを受けるには若い人気プロよりベテランプロに指導を仰ぐことが勧めだ。ゴルフは人気より経験がものを言う。ベテランプロはそのゴルファーが使っているクラブが適切かどうか、適度なバランスを保っているかを即座に見極めることができる。
サム・スニード、ベン・ホーガンといえば、1940年代以降のアメリカゴルフ界を代表する世界的な名ゴルファーだが、スニードは1950年代に来日して華麗なスウィングを知る日本のゴルフ愛好家は多い。日本で初めて開かれたカナダカップにアメリカ代表としてプレーしているので中折れのスニードハットを知る愛好家も多いだろう。
日本に近代ゴルフを持ち込んだ赤星六郎(1898〜1944)。アメリカ留学から帰国したのは1925(大正14)年のこと。帰国後東京ゴルフ倶楽部に入会して、アメリカ仕込みの腕前を発揮した。
大倉財閥総帥の初代、大倉喜八郎(1837〜1928)は、89歳の高齢にも関わらず、ビジネスのためなら、遠く満州、蒙古や中国へ旅に出かけるのはいとわなかったそうだ。そればかりではなく、気骨の人ともいわれた。
日銀総裁、大蔵大臣などの要職を歴任した井上準之助(1869〜1932)は、大分県日田の出身で、東京大学を出て銀行家になり、勤務の一環として海外勤務も経験している。ニューヨークの支店に勤務した時代、その余暇はゴルフに凝った。ニューヨークでは生糸商の新井領一郎らとの親交があり、新井からゴルフの面白さを教えられ、ゴルフに関する豊富な知識を身に着けて普及の一翼を担った。
帝国ホテルの支配人を務めた林愛作(1873〜1951)は、群馬県太田市の出身で、若くしてアメリカにわたり、ニューヨークで美術商の山中商会で働き、帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトとの厚い交流があったのが有名だ。愛作がアメリカに渡ったのは正式な渡米を申請したわけではなかった。
戦後、日本ゴルフ協会で専務理事などの要職をこなした小寺酉二(1897〜1976)は、慶應義塾大を卒業後アメリカのプリンストン大学に留学し、帰国後母校で、英語の教師として教壇に立っていた。ところが戦後、日本のゴルフが復興し、関東のゴルフ連盟ではルールの改正など英語が必要になり、請われて役員に就任した。
1945(昭和20)年8月、日本は太平洋戦争に敗れ、連合国軍が日本に駐留した。連合国軍の総司令官マッカーサー元帥が空路、厚木の飛行場に舞い降りた。その部下GHQの経済科学局長だったW・F・マーカット少将の名をご記憶だろうか。マーカット少将は連合国軍が日本に駐留している間、財閥の解体や独占禁止法、民主的労働法など、日本の民主化のために推進してきた中心人物だった。