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明治の健闘光る 番組名:学生ゴルフの足跡

更新日(2011/10/31)

 春日井部長の薫陶よろしきを得て力を伸ばし始めた明治大学勢は、 昭和11年の第2回七大学対抗に1回戦で王者慶應をワンポイント差の5−4で下したあと、 準決勝で早稲田、決勝では帝大に、いずれも7−2で快勝、2代目大学チャンピオンとなった。

翌12年には慶應が力を盛り返し、決勝で明治を一蹴(8−1)した。この対抗戦は続く昭和13年からは試合形式を勝ち抜き戦から参加校総当たりのラウンドロビンに変え、各対抗もフォアボール(ダブルス)は廃止し、シングルスのマッチプレーだけに変更したが、 ここでも明治は5戦全勝で優勝を飾った。

関東学生ゴルフ連盟の結成を契機に、学生のためのイベントは次第に増えていった。その当初、学生ゴルフの根城となったのは、駒沢パブリックだった。

東京ゴルフ倶楽部が朝霞に転出したあと、東急コンツェルンの総帥五島慶太が経営権を譲り受け、会員制でない、オールカマーのパブリック制コースとして運営した。

会員制クラブでないゴルフ場が登場したことは、学生にとって大変な幸運だった。支配人の田中善三郎、は1921(大正10)年の日本アマチュア・チャンピオン。アメリカでゴルフを覚えたので、ジュニアの育成に理解があり、なにかと学生ゴルフに便宜を計ってくれた。

学生のゴルフが次第に盛んになり、いいプレーヤーが出て来るようになると、霞ケ関をはじめ、相模、武蔵野、 秩父など新しい会員制クラブも、門戸を学生にも開放してくれるようになってきた。 こうした流れの中で、学生ゴルファーは順調にレベルを上げていった。 当時、各クラブのメンバーとして重きをなし、アマ・ゴルフ界の中心となっていたプレーヤーのほとんどは、 ある年配になってからゴルフを身につけた人たちだったが、これに比べると”ファミリー・ゴルフ”の中で育った 若い学生の方が、当然、進歩は早かった。

1940(昭和15)年3月、秩父カントリー倶楽部招待学生ゴルフ競技で上位に並んだ原田盛治(東大)、 久保田瑞穂(明大)、松本勉(慶應)、小川浩正(早稲田)、五島進(専修)らは当代の定型的なファミリー・ゴルフ出身者だった。 ちなみに、のち松本勉の夫人となったのは赤星四郎の令嬢、五島進は東急・五島昇の弟さんだった。 時計の針を若干戻して、1938(昭和13)年の5月、日本ゴルフ協会(JGA)の理事長・大谷光明、会長・森村市左衛門の両氏連盟のカップが、 全日本学生ゴルフ選手権の優勝杯として寄贈された(このカップは、現在、秩父宮記念スポーツ博物館に所蔵されている)。

JGAは創設以来、学生ゴルフ界とは直接のかかわりは持っていなかったが、学生集団を、次代をになうゴルフ界の母体として、 つねに注目し、心配りをしていたことが、この一事からも汲み取れよう。