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ゴルフ写真館
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プリンスオブウェールズ殿下愛用の砂とボール

[02/23掲載]
プリンスオブウェールズ殿下愛用の砂とボール
ウィンザー公 英国のプリンスオブウェールズ殿下(後のウィンザー公)。大正時代、国賓として来日し、摂政宮(昭和天皇)と東京ゴルフ倶楽部の駒沢コースで日英親善ゴルフをされた。(手前のビンに入っている砂は公がティーアップの時、使った砂とボール。 (東京ゴルフ倶楽部蔵)

ジョー・カークウッド

[02/17掲載]
ジョー・カークウッド
アメリカのプロゴルファーで曲打ちが得意。昭和13年、ウォルター・へーゲンとともに来日し、広野、茨木、名古屋、小金井、程ヶ谷の各倶楽部で行われたエキシビションマッチに出場した。左からグルー駐日・米国大使、ウォルター・へーゲン、カークウッド。 (東京ゴルフ倶楽部蔵)

ベーブルース

[02/10掲載]
ベーブルース
ベーブルース プレー後の記念撮影 (東京ゴルフ倶楽部 史料室 蔵) ※写真の無断転載を禁じます。

赤星 四郎 東京ゴルフ倶楽部駒沢時代の一コマ

[02/02掲載]
赤星 四郎 東京ゴルフ倶楽部駒沢時代の一コマ
東京ゴルフ倶楽部駒沢時代の一コマ(左手前は鍋島直泰、その先は石井光次郎、益田亘啓、パティングをしているのは川崎肇、その右は赤星四郎) (東京ゴルフ倶楽部 史料室 蔵) ※写真の無断転載を禁じます。

昭和8年日本オープンでの赤星四郎

[01/21掲載]
昭和8年日本オープンでの赤星四郎
大正15年のチャイナアマ選手権に優勝したM・バット(英国人)は昭和8年、日本オープン出場にため日本を訪れた。日本オープンでは旧知の赤星四郎と競り合いを演じた。バットは大会中、76のベストスコアを出し、日本ゴルフ協会は遠来の賓客に金メダルを贈った。(右がバット)。この時、赤星は16位タイ(アマチュアとして最高位)だった。(霞ヶ関CCで)  (東京ゴルフ倶楽部 史料室 蔵) ※写真の無断転載を禁じます。

チャールズ・アリソン

[01/18掲載]
チャールズ・アリソン
英国の庭園設計家だったチャールズ・アリソンは、東京ゴルフ倶楽部が埼玉県の朝霞に新コースを建設することになり、その設計の要請を受けて昭和5年12月に来日した。(東京ゴルフ倶楽部 史料室 蔵) ※写真の無断転載を禁じます。

女子ゴルフ個人戦の始まり

[01/11掲載]
女子ゴルフ個人戦の始まり
日本の女子ゴルフの競技は大正15(1926)年5月に創始された東西対抗が唯一のものだった。敗戦による荒廃から立ち直りを見せ始めた昭和28(1953)年、関東ゴルフ連盟の主催する関東女子選手権が始まり、女子ゴルフの普及度が急に高まった。第1回の関東女子選手権は千葉県の鷹之台CCで行われ、戦前派の伊澤鈴子さん(相模)が初のタイトルを手中にした。これが女子の個人戦の始まりだった。伊澤さんは作法に厳しく、男女の区別なくご行儀の悪いゴルファーに対しては遠慮会釈なしに注意を与えた。周囲は《メスライオン》というニックネームを献上した。(東京ゴルフ倶楽部 史料室 蔵) ※写真の無断転載を禁じます。

日本ゴルフ週間

[01/05掲載]
日本ゴルフ週間
 昭和32(1957)年8月、《日本ゴルフ週間》という催しが全国規模で行われた。全国のゴルファーだれでも参加料500円を払えば、日本プロのチャンピオンに挑戦できた。ゴルファーは好きなコスでプレーし、ネットのスコアで被挑戦者のスコアに挑戦するという企画だった。挑戦者が勝てば記念のトロフィーが主催者から贈られ、収益金は日本のオリンピック選手派遣に寄付された。  第2回目の催しで、主催者の日本ゴルフ協会は時の総理大臣、岸信介さんをオープニングのプレーに引っ張り出した。岸さんはその直前、日米首脳会談に出席してアイゼンハワー米大統領と親善ゴルフをやったばかり。この時のプレーで岸さんはアイクから贈られた新品のクラブを持ち出した。プレー後、スコアカードを点検する右から岸総理、同伴競技者の女優、荒川五月さん、タバコの火をつけるスミス在日米軍司令官、手前は野村・日本ゴルフ協会副会長(程ヶ谷CCで) (東京ゴルフ倶楽部 史料室 蔵) ※写真の無断転載を禁じます。



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