ところで小寺さんはプリンストン大学を出ているだけあり英語はペラペラだった。
その抜群の英語力が発揮されたのは戦後のことだ。終戦直後の日本のゴルフ競技は日本人と日本に駐在する米軍の将兵(進駐軍)との泥仕合のようなものだった。 ここで小寺さんの巧みな利後の出番が巡ってきた。横暴を極める米将兵の行為に対して『ここは日本だ。
日本の規則に従わない奴の出場を認めるわけにはゆかぬ』と毅然とした態度で対応し、日本のゴルフの対面を保ってきた。
その後、カナダカップ(昭和32年)、世界アマチーム選手権(昭和33年)、さらに中日クラウンズ、東海クラシックは小寺さんの力を借りて発展した。 ルールに詳しく、海外のゴルフ事情にも詳しいから、お願いすれば安心というのがゴルフ界の定説で、ゴルフ界には欠かせない存在になった。
小寺さんは日本ゴルフ協会の役員としては、特にアマチュア資格に厳しかった。戦後まもなくのことだが、 アマチュアの関東連盟の理事会が招集されて昼食時になると、『めしは連盟で負担する。 酒を飲む人は各自負担』とお堅い発言をした。理事たちは『ケチケチするなよ』と不満顔だったが、アマチュア団体としては当然のことだから、 誰も異を唱えられなかった。 アマチュアのスポーツ団体は寄付を集めているのは通例だが、こうした会合費の面でも、 最近はアマチュアリズムが曖昧になっているのではないかと思われる。
ジャーナリズムは小寺さんを日本ゴルフ協会の専務理事にして強化を図れと主張した。こうした声を反映するかのように日本ゴルフ協会も 小寺さんを関東ゴルフ連盟(理事職にあった)から引き抜いた。 だがどうしたことか、《専務理事》で迎えられるはずが、《専任理事》という肩書きにされ、理事の末席にランクされて発言力を奪われてしまった。 小寺さんはさぞ、悔しかったろう。私欲に走った“アンチ小寺”の半他派の仕込んだわなにはめられたと周囲は見た。
小寺さんは戦後の日本のゴルフ界を動かした3羽ガラスの一人といわれる。 日本ゴルフ協会会長の石井光次郎さん(元衆議院議長)は戦争によって活動を停止していた日本ゴルフ協会の復興の先頭に立った。 副会長の野村駿吉さん(カルテックス役員)は国際交流に心血を注いだ。そして常務理事、競技会委員長をしていた 小寺さんは国内のゴルフ場の復興、競技の充実に功績があった。温厚な性格だから報道関係者にも親しまれ、頼りにもされていた。 ゴルフ用語、ルールの質問に対してはいちいち丁寧に答えた。 その博識ぶりが学生ゴルフ連盟、日本、関東各ゴルフ連盟の運営に生かされているが、スポーツ界においてアマチュアリズムの尊厳を守り通した 賢者の一人だったといえる。