昭和33年の全日本学生ゴルフ選手権は40人が参加し、第1日の9月3日は36ホールストロークプレーの予選が行われた。メダリストは早稲田大学のエース浅見勝一(元日本プロゴルフ協会会長)、スコアは156(76・80)だった。予選通過の再開は163打で猪原、柿本(慶應)、柳下(甲南)3人が並んだ。3ホールのプレーオフになり、猪原はここで辛くも勝ち残り、ぎりぎりの8位でマッチプレーに進んで台風の目となった。猪原の予選通過はだれしも予想しなかったからだ。ちなみに予選通過者は前出の浅見勝一(早稲田)を筆頭に吉岡正恒(立教)、谷田耕一(早稲田)、浅池正一(慶應)、乾英文(甲南)、保芦栄次郎(慶應)、北岡貴人(慶應)に猪原一雄(甲南)の8人であった。
さて2日目もマッチプレーでは、またまた猪原旋風が吹き荒れる。メダリストの浅見は順調に、乾、谷田を下して決勝進出を決めた。猪原は脅威の粘りで浅池に競り勝ち、関西勢は1回戦ですべて姿を消したが、猪原一人が木柿をはいて最終日の結晶に勝ち残り、またまた話題になった。圧巻は準決勝の対吉岡戦だった。猪原は4番で40フィートの長いパッドを沈めて、相手の心理を揺さぶった。動揺した吉岡は短いパットを逃がして自滅した。かくしてこの年の決勝(36ホールマッチ)は、メダリストの浅見とプレーオフで勝ちあがった猪原の対決となる。
最終日。取材のため集まった新聞記者団は『メダリストの浅見と猪原の勝負は同転がっても浅見のものだな』と予想した。なぜなら浅見の父は日本の草創期のプロ(緑蔵氏)で、技術の指導も受けているはず、といわれたからだ。だが勝負は終わってみなければ分からない。午前のアウトで劣勢を伝えられた猪原が逆に4アップのリード。1番、3番で連続バーディを決めたのに対し、浅見は前日までの冴えたゴルフが影を潜め、パッティングが不調、加えてバンカーショットの失敗で午前の18ホールは猪原が大きくリードという意外な展開になった。午後、猪原はさらに差を広げ6アップの大差をつけて着実に勝利を手繰り寄せた。それを支えたのは無理のない手堅いゴルフだった。結局、勝負は8−7の大差がつく大波乱で猪原が勝利を握った。競技後、記者団の勝利のインタビューを受ける猪原は愉快に応えた。『プレー中は好きな《ワゴンマスターズ》のリズムを口ずさんで気分をほぐしました』と笑わせた後、こんなことも披露した。『決勝戦を前に、5通の激励電報を受け取りました。発信人は父親(貴男氏、当時、名古屋在住)、甲南大先輩で日本アマのチャンピオン石本善義さん。それに広野GCのキャディさんからのものです』という。キャディは広野GCの水沢さんという女性で、猪原は全日本学生選手権の直前、関西学生選手権(広野GC)に優勝した。この時、猪原を担当した広野GCのキャディだった。ゲンをかついでこの電報をポケットにしのばせてプレーしたのだ。
性格は本人にいわせると『のんき、だらしない、明朗』(猪原)というが『イノシシみたいにガムシャラなところもある』ということから、ニックネームは《イノ公》だった。
猪原はこの優勝を土産に甲南大を卒業して日商岩井に就職した。企業の中枢である鉄鋼部門に関わり、副社長の重責を担った。平成13年、念願だった東京ゴルフ倶楽部に入会した。東京ゴルフ倶楽部は格別な思い出があるから、ことさらこだわった。入会したての頃『入会した意義をご理解ください。私にとっては心の古里です。青春そのものです』と喜んでいた。『定年を迎えたら、思い出の場で存分にゴルフを楽しみたい』と希望に燃えていた。だが激務に酷使した体はいつしか病に冒されていた。入会から2年後、不幸にも帰らぬ人となった。しかし猪原にとって嬉しかったのは、入会できたことより、かつて全日本学生のタイトルを争った宿敵、浅見と思い出の場で対戦できたことだった。スコアは男の友情で明かされなかった。