戦時中、学生ができたスポーツは日本古来の剣道や柔道が主流で、当時の中学校(旧制)では教練、勤労奉仕、防空壕堀が日課になっていた。昭和16年12月には太平洋戦争が勃発し、日本は悲惨な戦争に突入した。戦前の学生ゴルフ競技として最後に残された記録昭和17年8月11日、12日の2日間に亘る学生ゴルフ連盟耐暑72ホール競技(秩父CC=現在の東京ゴルフ倶楽部)がある。この競技には32人が参加した。学生ゴルファーたちは一時的な柄、ゴルフの楽しさを満喫した。昭和15年、太平洋戦争が始まる前年、日本ゴルフ協会(JGA)は学生ゴルファーの日本オープン選手権の出場を禁じた。軍事政権下の国策に沿っての措置だった。やがて学生ゴルフは禁止され、部としての活動ができなくなった。スポーツの活動を制限させられたのはゴルフに留まらず、東京六大学野球、陸上、サッカー、ラグビーに及んだ。2年後の17年には大日本体育協会(現在の体育協会)は解散させられ、新たに発足した大日本体育会となった。舶来職追放の時代だから英語は使えないのは前述の通りで、例えばバスケットボールは籠球、バレーボールは排球、ゴルフが打球と言い換えさせられた。時局とはいえ、学生のスポーツ禁止は残酷な措置だった。それでも学生のスポーツに対する情熱は失せることなく、血気盛んな若者は、いつか目一杯、好きなスポーツをやって汗を流したい、という夢を持ち続けた。
折りしも昭和13年10年、埼玉県の入間郡霞ヶ関笠幡に秩父カントリー倶楽部が誕生した。当初は9ホールのパブリックコースだったが、会員制に移行して18ホールのコースになった。秩父CCは学生会員を募るために、学生ゴルファーに門戸を開放した。学生のための競技会も再三、開催していた。銃後をも守る学生ゴルフたちのために学生ゴルフ連盟と秩父CC、OBの融資が協力して夏の真っ盛りに72ホールの競技開催を企画した。東京ゴルフ倶楽部の50年史によると、競技名は2日間の《耐暑72ホール競技》。1日36ホールを回る強行軍のプレーであった。参加したのは連盟に加盟していた慶応義塾、早稲田、東北、東京、明治の各校から32人。キャディを帯同することなくセルフバックで回るのが条件だった。
これに参加した久保田繋治郎さん(程ヶ谷CC会員。慶応義塾OB)は思い出をこう語っている。『早く回るために2人1組でプレーしました。ただし旗持とフォアキャディはついてくれました。ボールの行方がわからないと時間がかかるので…。布製の軽量のバッグを肩に背負い、クラブは7〜8本持ちました。スタートは朝7時頃でした』
グロスの優勝は久保田さんの実兄、瑞穂さん(明治OB=故人)でスコアは299(147・152)。ネットは木戸さん(東北=木戸幸一氏のご子息)でハンディキャップは8で、ネットが290。一人の落伍者も出すことなく全員、所定の72ホールを回って、参加者たちはゴルフの楽しさを満喫した。ゴルフが制限された悔しさの鬱憤を晴らすに十分だったろう。だが、現実に戻ると戦争、食糧難、空襲の恐怖が襲ってきた。戦時中、日本は物資不足で、各家庭では食料の調達に必死だった。米の販売は統制されて排球制度だった。分量は十分でなく、肉類は入手困難、塩もタバコも配給だった。『歯を食いしばって悲壮な覚悟で空腹に耐えた』と久保田さんはいうが、この耐熱ゴルフこそ、競技史に見られない貴重な競技記録である。いま1日36ホールの競技を学生諸君は歓迎するや否や。おそらく『エーッ』と驚きの声を立てるだろう。耐暑ゴルフに勇躍参加した先達の忍耐力とゴルフに掛けた情熱とゴルフを愛する精神に拍手を贈りたい。