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日本女子大学体育会ゴルフ部 番組名:我がゴルフ部紹介

更新日(2013/06/01)

女子学生だけのゴルフ部が加盟したのは日本女子大学が初めて。部は昭和43年発足、同好会だった。


日本女子大、東京女学館大、実践女子大、フェリス女学院が昭和45年度の女子加盟校で、女子学生だけのゴルフ部が加盟したのは日本女子大学が初めて。部は昭和43年発足、同好会だった。

初代主将は松本(鶴野)和子。当時は監督、コーチもなし。43年度主将の南谷(町田)美花は「監督、コーチがいなかったので、技術面で大変だった。そのため主将の負担も大きかった。合宿ではこれからゴルフを始めようとする新入生に1から教えなければならなかった。上級生といってもよちよちゴルフだから、こちらがコーチにつきたいくらいだった」

連日の練習メニューは、木、土曜日の午後、練習場でボールを打ったが週に15箱を義務付けた。 昭和38年、学連加盟人数は1200人余。女子学生は300人を超えた。日本女子大のゴルフ部が注目されたのは昭和37年、創部から7年目のことだった。第6回関東女子学生選手権で日本女子大から3人が大健闘し、市川(鹿屋)るみ子が8位、関谷(天野)弓子が同位、板橋邑子が14位に入った。

第7回関東女子学生選手権(武蔵CC)では入沢紀世子(立教)が勝ったが、各校の間で、この時代から打倒常勝慶應の機運が高まっていた。入沢の優勝はその気運の表れだった。38年9月、関東女子大学対抗戦(紫CC)で日本女子大は関谷、板橋、宇崎のメンバーで3位に入賞した。

エース格の関谷は大学1年生の時からクラブを振り、父親の斗氏の指導を受けていた。162センチ、55キロは当時の女子大生にしては大柄だった。昭和38年5月、東京中日杯関東女子学生ゴルフで優勝した。日本女子大学から初の個人戦のチャンピオンの誕生だった。

こんどは第3回、関東女子大学対抗に初の団体戦優勝を飾った。創部から4年目の快挙。‘本女子大428⇔教大4297椿441という大接戦だった。関谷は入沢(立教)と同点首位だった。 この時期、慶応の増永たい子、立教の佐藤誠子、入沢紀代子、学習院の岩崎順子など女子大ゴルフは花盛りを迎えた。

関谷の後、岡本利影がキャプテンになり、この時代、日本女子大ゴルフ部は40人の部員を数えた。

「部員は授業と練習をどう両立させるか、に悩んだ。授業は出席をとるので、ゴルフ部の練習のために授業を休むことはできなかった。3回以上休むと呼び出しがかかった。しかし授業優先だから競技があるといっても休めなかった。

昭和41年、富田南海子が主将に。副将に宮森(北裏)ハル。富田は昭和41年の日本女子学生に3位の実績を残した。現在でも女子の日本女子シニア競技などに出場して健在だ。2年後の主将になった皆川(真鍋)和子は関東女子学生に5位と気を吐き、日本女子大の伝統を守った。いまも富田同様に全日本レベルの競技で活躍している。42年の関東女子学生に南谷(町田)美花が8位に入っている。南谷は評論家として活躍した片山竜二氏の長女。昭和41年のことだが、テレビ番組で「ゴルフ追放論」という番組で、「異議あり」と熱弁をふるった。昭和43年の主将だった。

南谷はその年の8月、日本女子学生で(城陽CC)5位、皆川が17位と健闘した。南は当時のゴルフ部員の服装について「華美にならず、キャディバッグを持ち運ぶので、着るものは人目を引かないように紺、グレー、白を多用しました。赤、ピンクを避けました」と女子大生のお洒落にも理念を持っていた。

部の現有勢力は総勢11人。1年生が6人いる。これからに期待がかかる。日頃の練習は駒込の駒ゴルフで週2日の早朝練習、筋肉トレーニングもやる。月に1度の割で距離のあるドライビングレンジを訪ねる。個々に実戦を積み競技に備える。



《日本女子大学体育会ゴルフ部役員》
監督 角田 茂 (関東学生ゴルフ連盟 理事)
顧問 今井 元 (理学部数物科学科)
主将 畑中 優 (文学部英文学科)
主務 田中 麻椰(家政学部児童学科)